これはまだ紅魔館が幻想郷にやって来る前の話。館の主人のちょっとしたお話。
「(これは困ったわ。どうしましょう……)」
 悪魔の住む館、すなわち紅魔館。その館の主であるレミリア・スカーレットは困っていた。
 まさかこんな事になるとは思ってもいなかったのだ。館の主としてあるまじき事態である。当たり前のことだ
が、自身でさえこんなことになるとは思ってもいなかった。当たり前である。
 レミリア・スカーレット260歳。本日、自らの館である紅魔館にて初めての迷子になるのであった。
「(どうしよう、館にこんなところがあるなんて初めて知ったわよ……というかメイド達も見当たらないし、本
当にどこなのよここ……)」
 父から館を譲り受け、その後増改築を繰り返してはいたが、その案件については基本的に全て自分が最終的な
可否を出していたので、地図は頭に入っているはずだ。そう、だから迷うはずはない……そのはずだった。
 となると思いつくのは先代――つまり父の代で行っていた増改築だろうか。もともと最初に立てた時は館や城
と呼べるほど大きくなかったらしい。それを、魔法と人間の建築技術を使って、今の館と呼ばれるほどの大きさ
までにしたといつも父は自慢げに壁を潰しながら話していた。
「本当にどうしましょう。このままだと自分の屋敷で餓死なんて恥ずかしい主の出来上がりだわ……」
 おやつのプリンもまだ食べてないし、と付け加える。彼女にとって「本日のおやつ」が食べられないのは日傘
無しで日中出歩けと言っているのと同義である。まだまだ吸血鬼としての実力が足りないレミリアは日中の日傘
なしでの散歩に耐えれるほどの力はない。つまり、おやつのプリンを食べれないということは死刑宣告も同然な
のである。
「本当に、本当にどうしましょう。いやしかしまだ慌てる時間じゃ……」
 レミリアは腰に下げた懐中時計で時刻を確認しながらぶつぶつと呟く。
 実際、まだ迷ったと気づいてから1時間ほどしか経っていない。館自体がもともと大きく、レミリアが知る範
囲でも地下から最上階まで、全てを歩き渡ろうと思えばそれなりの時間が掛かる。加えて自分はこの幼い身体だ。
時間が掛かるのも当然である。飛んでいけば時間は短縮できるが、それでもある程度の時間はかかってしまう。
 とはいってもまだ館の一部しか歩いていないのだ。もう少し、そう、長くとも四半刻ほど歩けば、きっといつ
もの知っている場所に出られるはずだ。そう自分に言い聞かせ、歩を止めていた足を再び動かす。
「(そうよ、この私が自らの屋敷で迷うだなんて無様な真似が許されるはずが……)」
 もしこの事が知れ渡ったらどうなるか。妖精メイド達の間でしばらくの間の格好の噂話となり、それがいつの
間にか我が妹―
―フランの耳にまで届いたりしたらもう私は(世間体的な意味で)部屋から出ることが出来なくなってしまう。も
しくは死ぬか。……そう、だからそれだけは避けねばならない。
 とにかく1に脱出2に脱出、3・4に休憩5に脱出。今考えるべきことはそれだけである。自分も見たことの
無い場所だ。妖精メイド達もそうそう来ることはないだろうと辺りの掃除状況から推測をする。まったく手入れ
されていない訳ではない。しかしエントランスやホールなどとは手入れの具合が違うことから妖精メイド達です
ら知らない場所の可能性がある。出会うことは無いだろうと安堵するものの、余計に不安になる。
「(せめて妖精の1匹でもいれば、迷っていることに気づかれない程度に着いて行く事ができたのに……)」
 そう思っていても仕方が無い。とにかく歩くしかない。幸い吸血鬼である自分は動き回ってもそうそう疲れる
ことは無い。とにかく歩け、歩けば見つかるはずだと奮起し、やけに長い廊下を歩き続ける。


―
――


「なんだか見覚えのある場所ね。たしか此処をこう行けば……!」
 歩を再開して数刻、ようやく見覚えのあるオブジェなどが姿を現すようになった。もしかしたらもうすぐこの
迷子から脱出できるのかもしれない。ようやく希望が見え始め、歩く足も自然と早まる。
 ――しかしそうしてやってきた場所は、先ほどレミリアが一度歩を止めた場所であった。つまりはふりだしに
戻るという結果である。
「そ、そんな……」
 それなりに屋敷の中を歩き回ったにもかかわらず、こうまで見覚えのある場所を見つけられないのはある意味
恐怖であった。少なくとも自分の覚えている範囲ではそこまで我が紅魔館は広くなかったはずである。
 思わず頭をうなだれたその時、頭の中で何かが鳴る音がしたのを彼女は聞き逃さなかった。本当に頭の中で鳴
っていたのだ。
「……何かしら」
 不審に思い、帽子を脱ぎ、帽子の中を覗く。
「ん……、これ……?」
 帽子の中にあったのは一つの小さな鈴。飾り気の無い、小さな只の鈴。
 いつのまに帽子の中に紛れ込んだのか。少なくとも自分が入れたつもりはないし、かといって他に自分の帽子
に細工するような阿呆はいないはずだ。
 試しに鈴を揺らして鳴らしてみる。小さな鈴らしく、軽い音ではあったが澄み渡るような非常に綺麗な音が小
さく響き渡った。
「……何も起きないじゃない」
 いよいよ希望がなくなってきた。もう外は暗くなり始めている。妖精メイド達の仕事が終われば紅魔館はいよ
いよ静かになってしまう。そうすれば本当にこの迷子の迷宮からの脱出は不可能となってしまうのではないだろ
うか。
 それはなんとしても避けたい。先ほどは見つからないようになどと言っていたが、もはやそんな事言っている
場合ではないかもしれない。妙な焦燥感が身を包み、余計に焦りが増えてしまう。
「どうしましょう、本当にどうしましょう……」
 別に怖いわけではないのだ。そう、たとえ妖精メイドたちが冗談交じりで話していた、勝手に動く甲冑や、絵
の中の人が笑い出すというようなことが、決して怖いわけではないのだ。重ねて言うが、怖いわけでは、決して
ない。ないったらないのだ。
 ただ自分の部屋に帰れないこと、晩御飯が食べられない事、熱いタオルで身体を拭いてもらえないことが寂し
いだけで、決して怖いわけではない。そう自分に言い聞かせて動こうとするものの、やはり気力というものは既
に殆ど残っていない。
「もうなんなの……」
 廊下に座り込み、膝に顔を埋める。何が紅魔館の主だ、何がカリスマだ。自分の家の中で迷うような自分が、
一体どうして主なんかをしているのか。父の突然の家督の譲渡を、今になって恨む。
 ――あぁ、今日のおやつのプリンは久々だったから、出来ればというか、かなり期待していたのだけれど……
もう食べれそうにないかもしれない。
 そんな事を思いながらも廊下の隅で縮こまりながらぶつぶつと文句を言う。
 こんな姿を妖精メイドに見られたらどうなるだろうかとも一瞬考えたものの、もうそれもどうでもいいという
結論にたどり着き、やがてレミリアは考えるのをやめた。

 そうして気づけばレミリアの意識は落ちていて、すやすやと眠っていた。




 いろんな夢を見ていた気がする。しかしそれもどうだったのかと聞かれると、すぐに思い出せなくなる程度の
もの。
 心地よい揺れ。そういえば、昔にはよくこんな体験をしていた気がすると頭の中では考えをめぐらせるも、ま
だ目を開けて目覚める気にはならない。この心地よい揺れにまだしばらくは身を任せていたい……。そう考えて
また意識を飛ばしかけるが、違和感に気づきはっと目が覚める。
「ん……」
「あら、お目覚めですか」
 気づいたそこは誰かの腕の中。自分を抱えてるのは……見覚えがあるが名前が思い出せない。
「あら……たしか門番の……」
「はい。門番の、紅美鈴です。お呼びのようでしたので、お迎えにあがりました」
 お迎え……そんなものは呼んだつもりは無いのだけれどと頭の中を巡らせてしばらく、あの鈴の事を思い出し
た。
「あの鈴は、貴女のかしら?」
「はいそうです。お嬢様と初めてお会いした時にお渡ししたものなんですが……」
 そういえばと思い出す。この門番を雇い、初めて会ったときに確かに何か渡されたような気がする。よくよく
思い出すと、そうだ、この鈴だ。自分の助けが欲しい時に鳴らしてもらえれば、いつでもどんな時でもどれだけ
離れていても駆けつけますと彼女なりの忠誠の姿勢を取りながら言っていた記憶がある。
 念のため身の回りに置いておこうと思い、何故かあった帽子の内側のポケットのような空間に入れておいたの
だ。
 そこまでしてからようやくレミリアは頭が完全に覚醒した。
 そうだ、助けてもらったと言う事は自分のあの恥ずかしい姿を見られたと言う事だ。自分の屋敷の中で迷子に
なってしまい、挙句疲れ果てて廊下の隅で眠るという、とても他人には見せられない姿をだ。
 しかしそうは考えるものの、紛れも無く美鈴は今のレミリアにとって恩人である事に変わりは無い。たとえ自
分の部下であっても、今回においては「当たり前」ではなく、感謝したいくらいだ。もしかしたら妖精メイドた
ちの働きぶりを考えると、あと数日くらいは放置されていても不思議ではなかったから。
「遅くなってしまって申し訳ありませんでした。館の中がずいぶんと入り組んでいたもので」
「いや……」
 感謝と羞恥と、その他いろいろな感情がごっちゃ混ぜになった頭の中は、最早正常な思考をしていない。それ
でもレミリアは誇り高い吸血鬼として、そしてこの紅魔館の主として必死に冷静を保っていた。この時ばかりは
このように教育してくれた父に心の中で感謝していたのは言うまでもない。しかしレミリアは自身が未だ美鈴に
抱かれているという、とても威厳ある姿には程遠い状態であることには気づけていなかった。
 頭をとにかく冷静に、かつ高速に回転させようと努めているレミリアだがそれは傍から見れば抱かれたまま何
も言わず、黙っているようにしか見えない。そんなレミリアを見て美鈴は何かを感じたのか、それとも何かを悟
ったのか、おもむろに口を開いた。
「私はこの紅魔館の門番であると同時に、レミリアお嬢様の絶対の部下であります。どんな時でも貴女の為に在
ります。まず何よりも貴女のことを思い、考え、そして動きます。どうか、お忘れなきよう」
 そういってレミリアへと笑いかけた美鈴の顔は、レミリアにとってとても素敵な笑顔で、ずっと沈んでいた心
が掬われるような、そんな気がした。


 

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