「やっほ」
 時計は夜の10時を指そうとしているところであった。
 家の鐘が鳴らされ、一体こんな時間に誰が何用だろうかと訝しみながら暁美ほむらが玄関の扉を開けると、そ
こには美樹さやかが立っていた。
「……こんばんは美樹さやか。それではさようなら」
 再び扉を閉めようとしたところで、さやかが慌てた様子で押さえつける。
「ちょっ!? せっかく友達が来たっていうのに、その態度は無いんじゃないのっ!?」
「知ったことではないわ。それに私は友人を作った覚えはないし」
 どうして美樹さやかが私の家に……とほむらは心の中で戸惑いと悪態を吐きながら思考を広げる。
 何度も繰り返してきたこの1ヶ月の時間の回廊の中で、覚えている限りでさやかがほむらの家にやって来たこ
とはないはずであった。いや、確かに無かったはずだと記憶を探って結論づける。マミやまどかはまだしも、さ
やかが来るとなればさすがに覚えているはずだ。となると、これはやはり初めての展開になるのだろう。ほむら
は少しばかり戸惑いながらも、下を向いていた顔を上げさやかを再び視界に入れる。
「そんな事言われるとさすがにちょっとさみしいじゃんかよ?、このー、照れ屋さんな"ほむら"めぇ」
 今現在居るこの時間軸自体がそもそも、数多く繰り返してきた時間軸の中でも特殊な位置に存在している為に、
この1ヶ月を繰り返してきたほむらにとっても想定外のことばかりであった。
 まず何よりも大きい出来事は、ワルプルギスの夜が襲来する一週間前である今日になっても誰も脱落していな
いこと。これは何よりも喜ばしいことであった。
 特にほむら自身が何かをしていた訳でもない。各々が少しずつ違う行動をとっていたことで、結果的にマミは
魔女に喰われることはなく、さやかは絶望を振りまく魔女になることもなく今に至っているという訳であった。
勿論まどかは魔法少女になることは無く、マミと杏子は不器用同士ながらも着実にその仲を修復していっている
のだった。
 想定外の事といえばそれ以外にも、目の前のさやかの事でいくつか思い当たる節がある。
 まず先ほどのさやかの言葉だ。今までさやかはほむらに対して名前で呼ぶ事はなく「転校生」と呼んでいた。
勿論、普通の人間ならばそう呼ぶのは最初の数日、一週間くらいだろうし1ヶ月近くも呼び続けるというのはそ
うそうない。
 しかしさやかと魔法少女として関わってこれほど長く生きていたことはとても珍しいことだし、だからこそこ
の時期の呼び名に対しての記憶が薄いのも仕方が無いのだが、それでもほむらはさやかから名前で呼ばれること
に違和感と微妙な気恥ずかしさを覚えていた。
「これは通報するべきなのかしら」
「なんで不審者扱い!? ちょっとほむらぁ、私に対して厳しすぎなんじゃないのー」
 このこのー、と頬を突こうとしている指を避けつつ再びさやかの姿を視界に入れる。
「って貴女濡れているじゃないの。どうしたのよ」
 暗い為に分かりづらかったが、見ればさやかの身体は雨に濡れていた。手に傘を持っているにも関わらず、だ。
今のところそれほど強い雨でもないのに、これは一体どういうことか。
「いやぁ、もともと壊れかけの傘だったんだけど、突風で壊れちゃってさー。この通りよ」
 ほら、と手に持っていた傘をほむらに見せつけるように持ち上げる。
 水玉模様の布地の部分は特に問題ないように見えたが、よく見ると傘の骨の部分がぼろぼろに折れて砕けてい
た。これではさすがに傘をさしても雨から身を防ぐのは出来ないだろう。
「……いいから上がりなさい。どうせ用事があったから来たのでしょう。そのままだと身体を冷やすからお風呂
を沸かすわ」
 突然の出来事で頭の中は未だに整理出来ていないし、そもそもほむらは、自分の家に他人を入れるということ
に慣れている訳でもなければ、そのような事を好んでいる訳でもない。気が乗らないのは頭の中で重々承知して
いるが、かといって風邪を引かれてはたまらない。その結果として治療の為に魔法を使うだなんてことは、決戦
の直前である今となっては無駄遣いにも等しい。
 故にほむらはさやかを家に入れる事にした。そして魔力を使わず普通の人間らしく機械によって湯船に湯を張
り、服を乾かすのであった。
 さやかを家に上げてから、服や鞄など濡れている箇所を拭かせ、とりあえずの体裁を整える。
「貴女を家に入れたはいいものの、替わりの服になるものが無いわね……。私の服だと、さすがに貴女には少し
小さいだろうし」
「そこのところは大丈夫!さすがさやかちゃん抜かりなし! なんたってこの鞄の中には着替えが……」
 どうしてそんなに都合よく着替えが入っているのだとほむらが疑問に思う暇もなく、さやかは背負っていた鞄
を床に下ろし、鞄の口を開けて中から衣服を取り出す。取り出されたのは、青色の寝間着。
 寝間着を挟んで二人の間に沈黙が流れる。
「濡れてるわね」
「……そうですね」
 当然といえば当然のことである。降り続く雨の中、途中から傘を差さずにほむらの家まで来たのだ。さやかの
身体が濡れているのだから、当然の如く背負っていた鞄も濡れている。防水加工のなされていない鞄には雨が中
にしみ込んでいき、鞄の中に入れていた衣服をその意味を為さないものへと変化させていた。
「……あ、でも教科書は無事だ。よかった?。これで教科書も濡れてたら明日学校に行けないところだったよ」
 鞄の中身を漁りながら中に入っていたものを取り出して、ふぅ危なかったと息を吐くさやかの横でほむらは混
乱していた。え、教科書って。もしかして泊まるつもりで来ているのだろうか。どういうことなのだろうか。
 しかしそれは追々聞けばいいことだ。とりあえず、まずは目の前のびしょ濡れのさやかをなんとかしなければ。
 ほむらはため息をひとつ。
「私の服でも少し大きめの服なら、貴女でもなんとか着れるでしょうし…引っ張りだしてくるから、先にお湯に
浸かって暖まりなさい」
「うへぇ……も、申し訳の極み!」
 手を合わせて頭を下げる。そこまで感謝される事もないのだがと思っていると、ありがたやありがたやーと何
とも奇妙な声色での声が続いた。本当に感謝しているのかどうか分からなくなってきて、なんだか面白くない。
「……とりあえず早く入ってきなさい。もう浸かれるくらいには張ってあるだろうし」
 追い出すようにさやかを風呂場へ追いやり、居間に戻ったほむらはため息をつく。
 そして傍らのさやかの鞄と、その周りに散らかったその中身を見遣る。
 濡れた寝間着と下着一式、そして濡れずに済んだ教科書とその近くには制服があった。よくよく見ると、鞄の
中に通学鞄が入っている。この時間に持つには似合わない大きな鞄だと思っていたが、まさかこれほどまでに分
かりやすい荷物を入れているとは。ほむらは
 これは恐らく親に無断で来ているとしか思えない。連絡をするべきだろうか。何があったのかはほむらは知る
由もないが、しかしかといって家出の先をこの家に決めるというのはよっぽどのことがあったのだろう。さやか
にとって、まどかやマミの家はほむらの家よりもよっぽど気軽にいけるというのにも拘らず、だ。
 ほむらは悩んだ。
 どうすればいいのだろうか。
 美樹さやかという少女に対して、ほむらは他の魔法少女に対する気持ちを同じものを持ち併せていない。覚え
ている限りでも、事ある毎にほむらに突っかかってくるせいで事態をややこしくさせたり、得られるはずの信頼
を台無しにされたり、果ては繰り返してきた多くの世界で恋愛のこじれから魔女化する始末。
 まどかの一番の友人であるという理由がなければ真っ先に切り捨てる駒であると云っても過言ではない。そん
なさやかだからこそ、ほむらは積極的に関わることは無かったし、さやかが好意的に接する事もほとんど無かっ
たのだった。
 だからこそ、今ほむらは非常に悩んでいる。
 この世界のさやかは、やけにほむらに対して好意的なのだ。それも自分の考え過ぎでなければ、さやかがまど
かに接する態度に近いほどの、ほむらにとっては奇妙ともいえる好意的態度。
 この様な態度を取られては、相手が好意的に接してくるのであれば、無下に扱う事をほむらは出来ない。いく
らほむらが良い感情を持っていない相手??つまりはさやかのことだが??であっても、それは同じ事。
 そのような今までの行動が、結果的にさやかの向かう先をこの家に定めさせてしまったのかもしれない。
「……」
 どうであるにしろ、まずは何故さやかがほむらの家に来たのか、それを問いたださねばならない。何故この時
間に家に来たのか、どうして自分の家に来たのか。
 ほむらはもう一度ため息をつく。頼られるのは悪い気はしないが、どうにも面倒というか何というか。他人を
家に迎え入れるだなんて慣れないことをするのは得意ではない。
 時間を繰り返すうちに決まりきった仕事のように同じ行動ばかりしていた所為か、どうにも戦闘外では想定の
外の出来事に対して咄嗟の行動が出来なくなっているようにも思える。
 特にこの世界では、今までとは全く異なる態度をとるさやかに振り回されっぱなしのような気がすると、今更
ながらにこの1ヶ月近いこの世界で過ごして来た日々を思い返す。
 美樹さやかという少女は、単純な性格ながら、それ故に読めないところが多い。予想外の行動をされて、その
結果最悪の結果になっていたことなど、今までに何回あったことか。その他にもよかれと思ってほむらがとった
行動を邪推して無下にしたり、時にはほむらに食って掛かる始末。
 沢山の、多くはあまり思い出して気持ちのいいものではない美樹さやかという少女に関する思い出が、頭を占
める。ほむらがどう考えていても、魔法少女として関わっている以上、やはりほむらの記憶の中では大きな比重
を占めているということは否定しようのない事実であった。
 それを理解して、ほむらはため息を一つつく。
 こんなことばかり考えていてはいけない。他の事も考えようと頭を切り替え、そういえば靴もずぶずぶに濡れ
ているはずだと玄関へ出ると、案の定、むしろ当たり前というべきか、さやかの履いていた靴はびしょびしょに
濡れていた。乾かすには新聞紙が良いと思い出したほむらだが、あいにくこの家には新聞紙というものはない。
 少し考えた結果、似ているから大丈夫だろうということで、学校から貰ったいらない用紙を丸めて詰め込むこ
とにした。とりあえずはなんとかなるだろうと勝手な憶測で。

 しばらくすると風呂から上がったさやかが、ほむらが貸した寝間着を着て部屋へと戻ってきた。
 考え事をしていたほむらは思考を中断し、ちょうどよかったとばかりにさやかの方へと向き直る。
「ひとつ、聞きたいことがあるのだけれども」
 髪を乾かしているさやかに向かってほむらは口を開く。温風が自分に向かってきて少し鬱陶しい。そういうち
ょっとした気遣いをしてほしいものだとほむらは心の中で呟きながら、さやかの反応を待つ。
「ひとつといわずにいくらでも聞いてちょうだいな! この頼りになるさやかちゃんが何でも答えてあげる
よ!」
「何をすれば帰ってくれるかしら」
「まだそれ言うの!?」
 本気で驚いているようであった。それは冗談として、とほむらは続きを口にした。
「家出、してきたのね」
「まー今日だけだけどね。明日学校行ったらそのまま戻るつもりだよ」
 案外あっさりと答えたさやかに、ほむらは拍子抜けした。もっと言いづらい事情があってもっと遠慮がちに言
うものだと思っていたのだが、この少女はそういうものとは無縁なのだろうか。恋愛方面でもこれくらい図太く
なっていれば、これまでの世界でも苦労しなかったのにとほむらは少しばかり思う。
 つい昔のことを思い出しがちだが、それよりも今目の前のことだ。さやかはほむらの予想通り、家出してきた
ということで間違いはなかった。こんな遅い時間に、大きな鞄を背負って中学生の女の子が一人で他人の家に行
くのだから、それ以外を考える方が難しいのだが。
「一応理由は聞いたおいた方がいいのかしら。それとも聞かないのがいいのかしら」
「思春期の女子の家出理由なんて、親との喧嘩以外にに何があるのさー」
 あっけらかんと答えるさやかに、ほむらは二の句が継げなくなった。勿論家出の理由は想定内のものであった
が、まさかこんなに軽く言うとは思ってもいない。もちろん、衝突理由によってはここから先は答え難いものに
なるのかもしれないが、それでも自分には到底出来ないこの態度はほむらにとって驚嘆に値するものであった。
 そう、と小さく答えたほむらの声が雨の音にかき消される。少しばかり雨が強くなってきたようだ。
「なら家出はいいとして、どうして私の家なのかしら。他にも候補はたくさんあったはずよ」
「それにもちゃんと理由があってねー。マミさんの所は今は杏子が厄介になってるから行くのはちょっとためら
うし、まどかや仁美の家には迷惑かけれないし……」
「私には迷惑かけてもいいということね」
 じゃあそろそろ帰らせようかしらとほむらが口に出そうとしたところで、慌ててさやかが言葉を続けた。
「いやいや、それ以外にもちゃんと理由があるんだから、ちゃんと聞いてよ。今回ほむらの家に決めたのはちゃ
んと理由があるんだから」
 迷惑を掛けてもいいという事以外に?と口に出そうとしたところで、さすがにこれ以上は意地が悪いかと思い、
口をつぐむ。
 さて、それにしても他に理由があるとは一体何事だろうか。他に理由が存在する程、ほむらはさやかと親しい
仲ではないはずであった。記憶に頼るところではほむらとさやかは友人の友人以上の発展を見せたことはなかっ
た。同じ魔法少女としてもその二人の性格から衝突することが多く、仲良く親しくだなんてありえる話ではなか
ったのだ。
 しかし今回の世界では話は別だ。特に大きく態度を変えた訳でもないのに、ほむらに対するさやかの態度は何
故か非常に好意的なものなのだ。今までのさやかの、ほむらに対する印象が負の方向に伸びていたのだとしたら、
数値はそのままに正の方向に置き換えたのではないかと思う程の変化であったのだ。
 目の前の少女が、自分の家にやって来た言葉以外の理由を推し量ろうと横目でさやかを眺めながら悩んでいる
ほむらを見て、一息ついた後にさやかは口を開く。
「ほむらさ、学校でもそうだし私たち魔法少女同士で一緒に居る時も思うんだけど、他人と一線を引いてるとこ
ろがあるよね。はじめの頃は転校したところで緊張して遠慮してるのかなって思ってたけど、今でも変わらない
し。むしろ転校から1ヶ月も経ってるのに私たちへの態度が変わってないのって逆におかしいもん」
 美樹さやかという少女は、ほむらの少ない友人関係の中では少なくとも一番女子中学生らしい少女であった。
恋愛に悩み、友人との距離感にやきもきし、大人への抵抗として、こうして家出してくる。そして友人の機微に
気づき、必要であれば身体を張って解決に導く。
 対立する人もいれど、その人柄故に信頼する人も多い。教師からも成績以外の面では信頼されているようであ
るのだから、美樹さやかという一人の少女の人望が窺えるだろう。
「だからさ、この家出の一泊を通してほむらともっと仲良くなろうと思った訳さ!」
 ほむらはため息をつく。目の前の少女が来てからというものため息ばかりをついている気がするが、もしかし
なくとも原因はその当人なのだが、それは両者とも気づかない振りをしていた。
「……分かったわ。さすがにこんな夜遅くに雨が降っている中、今更出て行けとは言えないし、今日だけなら好
きにしなさい。
 だけれども泊めるのは今日だけよ。明日帰ってからちゃんとご両親と仲直りして、無駄な衝突は避けるように
努めなさい。ワルプルギスの夜が来るまであと少しなのだから、変な事で心に負担をかけるようなことはしない
で」
 少女らしい少女であるからこそ、ちょっとした事で心の光を濁す。それがやがて溜まりに溜まって、彼女は今
まで幾度も魔女としてほむらたちの前に現れた。
 それが美樹さやかという少女。悪気というものはない。ただ美樹さやかという少女が美樹さやかである為には、
その心の有り様が必要であったという、ただそれだけのこと。
 面倒かそうでないかという問いがあれば、それは間違いなく前者であろう。元々ほむらは人付き合いというも
のがとことん苦手なのだ。出来る事なら、必要以上の他人との関わりは遠慮願いたいのだ。しかしそうではあっ
ても、ほむらも年頃の少女であることに変わりはない。
 ずっと孤独でいるのは、たまらなく辛いことであるのだ。自分でその道を選んだこともあり、そしてそうなる
ように他人と接した結果の事ではあるが、それでもやはり、ずっと一人でいるのは時に辛くなる時がある。どう
しようもなく思考が悪い方向へ進んでしまいそうになる時がある。
 そんなほむらの心の内が、さやかを迎え入れたことの原因の一つであるのかもしれない。
「とりあえず、時間も時間だから寝る準備をする訳だけれど……」
 ほむらの現在住んでいる家は部屋が一つしかない。つまり生活空間は実質、今二人がいるこの部屋のみになる。
そして寝る為には、部屋の何割かを占拠している机を片付けなければならない。
 机を動かす為に立ち上がったところで、ほむらはふと大事なことを思い出した。
「先に言っておくけど、客人用の布団は無いわよ」
 ほむらが住んでいる現在の家は飽く迄もほむら一人の仮住まいだ。時期がくればいずれ離れるつもりである為
に、荷物も必要最低限のものしか置かれていない。
 そんな状況なのだから当然といえば当然なのだが、寝具のような嵩張るものは、ほむら自身の分以外にある訳
がない。
「大丈夫。ほむらと一緒の布団に入れば問題ないよ」
「……」
 どこまで本気で言っているのか、ほむらにはさっぱり検討がつかない。
 当然のことながら、ほむらにとって、さやかと一緒の布団で寝る事には結構な抵抗がある。さやかに限らずそ
れは他人であれば誰でも、というのはあるが、どちらにせよ、美樹さやかという少女と共に寝るにはかなりの葛
藤が存在している。それは多分に照れというものも含まれているが、それ以外にも今までの関係……特に対立し
てきたことが多い仲であるために、呉越同舟といえばいいのか、なんというか居心地が悪いのだ。勿論、目の前
のさやかにとってそれは全く関係のないことで記憶に存在していないもの。故にさやかにとってはほむらと共に
寝る事は先ほどの言葉通りであり、単純にほむらの心境の問題であるのだ。
 一緒に寝られるほど、心を許した訳ではない。出来る事ならばそんな事は遠慮したい。かといって床にそのま
ま寝させる訳にはいかない。椅子や机の上、廊下など論外だ。
 ならば、やはり同じ布団ということになるのだろうか。どうにもならないのであれば自分が動けば問題ないだ
ろうと、若干眠気が頭を鈍らせているほむらはその時は深く考えずに話題を流した。

「じゃーん! やっぱり女子会に欠かせないのはこれ、お菓子だよね!」
 さやかが背負ってきた鞄を弄り取り出したのは、若干包装用の箱が湿気ており鞄の中で圧迫されていたのだろ
うか、角がつぶれているお菓子の数々であった。濡れてしまっていることや包装の箱が崩れていることは今更故
に目を瞑るとして、それよりも鞄から取り出されてきたその数に驚く。どうみても二人で食べる量ではない。と
いうよりも、さやかの背負ってきていた鞄には教科書や通学鞄、制服などといった着替えが既に入っており、そ
こから更にこれほどの数のお菓子を入れる余裕があるようには見えない。
 美樹さやかという少女はもしかして収納の達人なのだろうか。それとも女子中学生を極めた少女には、好きな
お菓子を鞄から取り出す能力でもあるのだろうか。
 そんなどうでもいいことを頭の隅で考えながら、ほむらは目の前に広げられたお菓子を見てまた一つため息を
つく。
 お菓子といえば、遠い昔にマミが振る舞ってくれたお菓子を食べたことをほむらは思い出した。
 あれはいつ頃の出来事だっただろうか。ずいぶんの昔の話のように思えてくる。とても美味しく、楽しかった
昔の思い出。
 ほんの少ししか食べないほむらとは対照的に、ある分はあるだけ食べる杏子とさやか。必然的に取り合いにな
る二人。それを眺めるほむらやまどか。先輩らしく注意をしつつも、微笑ましくその光景を眺めるマミ。
 懐かしい昔の話だ。それはもはや幾星霜も昔と言っていい程、ほむらにとっては過去の話。
 もともと小食のほむらは必要以上の食事や間食を必要としない。魔法少女として戦う際でも前衛として戦うさ
やかとは違い、ほむらは重火器や火薬を用いて一撃離脱の戦法を用いるために体力も必要最小限しか消費しない。
 自然、ほむらの食事は楽しむものから栄養を重視するものへと変わっていくのは当然のことであった。そんな
食事が続いていたため、お菓子など本当に久しぶりに見たとさえ云えるほどのものであった。
 しばらくそのような食生活が続いていたため、ほむらの小食はさらに加速する事になる。常人の半分以下の量
で満腹になる程にまで胃が小さくなっていたのだった。しかし女子にとってお菓子は別腹。そんなほむらでも、
この時ばかりは普段よりもお菓子に手が伸びていた。
 友人たちと夜更かししながら何でもない話を語り尽くす。
 それは魔法少女というものを何も知らなかった頃のほむらが、密かに憧れていた学生生活の一つであった。
 いつしか望んでも得られないものとなっていたそれは、今日、こんな形で成就したのであった。思いもしなか
った形で願いが叶ってしまい、ほむらは願いが叶ったことの喜びとそれを叶えた相手のことを考えて、なんとも
微妙な表情を見せる。
 嬉しくない訳ではない、重ねて云うが、この状況はほむらが憧れていたものの一つであるのだから。しかし全
く予想だにしていなかっただけに、喜んでいいのかどうか迷ってしまっているのだ。理想の状況だが、相手はほ
むらにとって最も関わり難いと考えていた相手。その心の内は複雑であった。

 雨音がしとしとと音を立て続ける。途切れることのないそれはどこまでも続き、ほむらたちの居る空間にも小
さい音で響く。
 他愛のない話が続く。そしてふとした沈黙の時間に雨の音は二人の耳に届く。
 ゆっくりと流れる時間。ほむらが一人でいる時には決して流れることのない早さで時間はゆっくりと動く。そ
れは強ばっていたほむらの心を少しだけ、しかし今の空間では十分すぎる程にほぐしてくれるものであった。
「ほむらさ、まどかの事、好きなの?」
「す、好きって…! そ、そ、その隙って数寄って……」
 おもむろにさやかが口を開き、突然爆弾のような疑問を投下した。
 突然すぎる質問とその内容にほむらは当然のように自爆した。
「私もまどかの事は好きだよ。可愛いし、いい子だし、仲いいし、何より私のことちゃんと分かってくれている
し」
 誤解を招きかねない発言によって、充分にほむらは動揺してあっさりと失言してしまった。
 さやかにとっては特にひっかけようとしたつもりはなくとも、少しばかり期待していた結果としてこんなにも
簡単に面白いように狙った反応が返ってきたところをみると、どうやらさやかが思っている以上にほむらにとっ
て、まどかは特別な存在であるらしい。誰かにそれだけ思われるというのは幸せであるものだと思うのと同時に、
ほんの少しばかり嫉妬する。
「……まどかは」
 ほむらは一度頭の中で思考を巡らせる。
 そして小さく息を吐いて再び口を開く。
「まどかは私を救ってくれた、とても大切な人よ。好きとかそうじゃないとか、…そういう括りで語れるもので
はないわ。私がいまここに居るのは間違いなくまどかのおかげだし、私が魔法少女になったきっかけも理由も全
て彼女よ。
 私はひとつの目的の為に戦っている。そしてその最大の壁であり目標であるのが一週間後にやってくるワルプ
ルギスの夜よ。あれを、まどかが契約する事なく、一切の怪我を負わせる事なく倒す。それが今私がここにいる
理由」
 そう言い切ったほむらの瞳は強い意志に溢れたもので、気を抜いていたさやかはその気迫ともいえる雰囲気に
圧倒されていた。
「そっか……。でもワルプルギスの夜ってさ、滅茶苦茶強いんでしょ。……正直なところ、私たちだけで勝てる
の?」
「…分からないわ。今までこの4人が揃って戦えたことは一度もなかったもの。様々な理由で誰かが欠けている
ことが多かったわ。ワルプルギスの夜に勝てた時はいつもまどかが契約してしまっていたから、まどかを抜いた
私たちだけで勝てるかどうかは分からない」
 まどかが契約すれば、ワルプルギスの夜に勝てる確率はぐんと上がるのは間違いない。キュゥべえの言うよう
にまどかの素質は素晴らしく、その素質だけで最強の魔女を倒してしまえる程なのだから。
 しかしそれを倒す為にまどかが契約してしまっては本末転倒なのだ。ほむらが幾度も繰り返してやっと?み取
ったこの世界を無為にしてしまうに等しい。
 だからこそ、まどかを除いた4人で立ち向かわなければならない。さやかはともかくとして、ほむらから見て
もマミと杏子の二人は中堅らしくとても優秀な魔法少女だ。いつの世界だって二人は善戦してくれた。信頼に足
りうる実力を持ち合わせている。しかしそれでも、やはり不安は拭えない。
「ちなみにさっき言った誰かが欠けていたという話だけれども、覚えている限りでは圧倒的にあなたが欠けてい
ることが多かったわ。理由は言わなくても分かっているだろうけれど」
「うへぇ……なんだそれ、私ってそんなに精神的に弱っちい感じだったかなぁ…。私が欠けているってやっぱり、
絶望して魔女になったりしてたの? ……その、恭介のことで」
「みなまで言わなくても分かるでしょうから、あえて何も言わないわ。けれど、私が特に懸念していた事項の一
つであったことは確かよ」
 苦労した日々を思い出す。どうにかならないかと奮闘した時もあれば、逆に引っ掻き回せばなんとかなるかも
しれないと余計に混乱させた時もある。結局のところ、それらの苦労が実ることは無かったがそんなことはおか
まい無しに一連の出来事を起こすのが、美樹さやかという少女が美樹さやかである所以であるとも言える。
「今回はその必要はないみたいだけれど」
 少しだけほむらが微笑む。突然ともいえるその優しい表情にさやかは少しだけ赤面して俯く。もう、かわいす
ぎじゃん。そんな事を小さくつぶやきながら。
 突然のほむらの攻撃ともいえるそれにしばらくの間混乱していたが、さやかはやがて心を落ち着けて再び顔を
上げてほむらの顔を見つめなおす。
「そういえばほむら、あんたはワルプルギスの夜をなんとか出来たらどうするつもりなの?」
「……」
 もしワルプルギスの夜をなんとかする事が出来れば。
 鹿目まどかは契約していない。巴マミは死んでいない。美樹さやかは絶望していない。佐倉杏子は頼る相手を
手に入れた。
 言うまでもなく、現状は今までの中でもっとも理想的な世界といえる。このまま上手く事が運べば、それはき
っと今まで手に入れる事の無かった、とても素晴らしい世界を手に入れることが出来るのだろう。そしてワルプ
ルギスの夜を超えた、ほむら自身の見た事のない世界が広がっているのだろう。
 何をしてもいい世界なのだ。鹿目まどかという一人の人間に自分の全てを懸ける事無く、ワルプルギスの夜と
いうひとつの強大な存在に振り回される事無く、全ての行動は自分の自由になる世界なのだ。
 それは、たまらなく素晴らしい世界で、そしてとても寂しく味気ない世界の様に感じてしまう。
 誰かの為に生きるというのはとてつもない力を生み出し、そして消費する。それはまるで燃え盛る炎のように。
 炎を燃やしている間はどれだけ苦しくても活動出来る。燃料はずっと絶えず目の前にあったから。しかしそれ
が終われば。
 燃え尽き症候群というものだろうか。ほむらにとって、ワルプルギスの夜を倒した先の世界というものは全く
もって想像出来ない世界であった。正確に云うならば、想像は出来てもそれは全く現実のものとして考えること
は出来ない、空想のものでしかなかった。
 それほどまで、ほむらはこの1ヶ月を全力で生きて、そしてずっと繰り返して来たのだ。
「ほむらのご両親は別の所にいるんでしょ。そっちに戻ったりするの?」
「可能性の一つとして、無くはないわ」
 未来のことなど、必死すぎて考えたことなど無かった。
 というのは全くの嘘である。
 いつの日かこの1ヶ月の繰り返しの呪縛から解き放たれる時があれば、ワルプルギスの夜を越えるときが来れ
ば、そう考えた時は幾度もある。しかしやがて何度も繰り返し1ヶ月を当たり前のように繰り返すようになり、
いつしかそんなもしもの世界を考えている余裕などはなくなっていた。
 ただひたすらに、ワルプルギスの夜を倒すというその使命のために奔走し腐心しそれだけの為に生きてきた。
先の事など後回しだった。
 あと1週間で運命の日が来る。それを越えてから、自分は一体どうするのだろうか。
 やはりその答えは出なかった。その光景を明確に想像することが出来ず、無難で、しかしいつかはそうなるだ
ろうという予測の返答しか出来なかった。
「すぐに出て行くということはないけれど、どちらにしても私が見滝原に来たのは治療の為だから、治療が完了
している今はもう見滝原に留まる理由はないわ。遅かれ早かれ、見滝原を出て行くのは確実よ」
「まどかが悲しむだろうなー」
 わざとらしく、ほむらを敢えて見る事無く呟く。
 そう、鹿目まどかという少女は優しい。何度も同じ時間を繰り返したほむらからすればそれこそ長い付き合い
になるが、向こうからすれば、たった1ヶ月程の短い付き合いだ。これから仲良くなっていく過程であるような
間柄。そんな関係のほむらに対しても、まどかはどの時間でも変わらぬ優しさを見せていた。そんな彼女である
からこそ、きっと別れを惜しんでくれる。そんな優しい少女であるからこそ、ほむらは彼女の為にこの繰り返す
1ヶ月を、何度も何度もやり直すことが出来るのであった。
「でも」
 そこでほむらが口を開き、言葉を続けた。
「1ヶ月前に転校してきたところで、またすぐに転校するというのはさすがに考え難いわ。少なくとも、今の学
年の間はいることになると、思う」
 言葉が尻窄みになってしまい、最後の方は喋っているのか頭の中で考えているだけなのか、自分でも分からな
くなっていた。
 ほむら自身にとっても出来るならばもうしばらくここで過ごしていたい。見滝原に来る前にいた所ではずっと
病院に入院していたからまともな友達なんていなかった。病院に努める看護師の方が親しい位であった。
 しかしここでは違う。自分の名前を呼び、にこやかにいろんな事を聞いてきて、そして遊びに誘ってくれる友
人たちがいる。これだけ恵まれている環境に別れを告げることは、出来ればしたくない。
 しかし現実はそれだけでは許されない理由が存在していた。
「それに魔女退治の事にしたって、ワルプルギスの夜を越える事が出来たら、たぶん私はもう何も出来ないだろ
うし」
 ほむらのその言葉にさやかはやはり反応した。どういうことかと聞く前にほむらはさやかを制して口を開く。
「私の願いはまどかを救い、まどかを守れる私になることよ。そしてそれの対象はワルプルギスの夜。それを越
えてしまえば私の能力は存在価値と理由がなくなってしまう。ただの変身出来る一般人に過ぎないわ。……そん
な風に足手まといになって、巴さんに迷惑を掛ける訳にはいかないし」
「巴さん」
「……巴マミと言ったわ」
「巴さん」
 要らないところで揚げ足を取るなとほむらは心の中で悪態をつくが、それよりも不意に自分の口から出たマミ
に対する呼び名に驚く。
 自分がまだまだ半人前で、一人ではまともに魔女と戦えなかった頃はずっとそう呼び続けていた。今もその尊
敬の念は変わらないが、しかしそのように親しげに呼ぶことはなくなった。ただまどかを救う為に生きると決め
てからは、巴さんなどとそう呼んだ記憶は一切ない。
 しかし自分の口から出たのはどういう訳か、昔の呼び方だった。ワルプルギスの夜を越えて、能力を失った時
の事を考えて弱気になってしまったのだろうか。昔の自分のような、弱気で他人を恐れて何も出来なかったよう
な頃の自分のように。
 それはあながち間違いではないのかもしれない。能力を失ったとしても魔法少女としての使命は続く。つまり、
それは魔女を狩り続けることを強いられるという人生。そして自らの魂を物質化させた結晶であるソウルジェム
の浄化。元々攻撃手段を持たない魔法だ。自身の時間を周囲から隔離させるというこの魔法が使えなくなってし
まえば、もはや何もする事は出来ない。魔女が現れても倒す手段を持たず、日々汚れて行くソウルジェムをただ
眺め、そしてただ死を恐れて死を待つだけ。あの頃と何も変わらない。そして以前と違って、手術や投薬治療で
なんとかなるものではない。
 それはとても恐いことだ。
 とても、恐ろしい。
「大丈夫だよ」
 そんなほむらの心を察してか、さやかは小さく、しかし力強くそう言った。
 ほむらに近寄り、両手でその頬を包み込むように触れる。突然のさやかの理解不能な行動にほむらは顔を真っ
赤にさせて俯こうとするが、さやかの手がそれをさせようとしない。
 あきらめて目線を戻してさやかの顔をみる。やさしい表情ながらもその顔は真剣で、何かを決心したかのよう
に思わせる雰囲気が漂っていた。
「大丈夫だよ。たとえほむらが何も出来なくなっても、見滝原に居る限り、私たちが助けるから。いや、見滝原
から居なくなっても助けるよ。ほむらを魔女にさせる訳にはいかないしね」
 さやかのその真剣な瞳に堪えきれずに視線が泳ぐほむらだが、それを表情を変えることなくさやかは見つめ続
ける。
 やがて頬を包み込んでいた両手を離し、手持ち無沙汰になっていたほむらの手を優しく握りしめた。
「魔法少女が街の平和を守るのは当然だけど、友達を守るのはもっと当たり前のことだよ。ほむらのことは絶対
に私たちが助ける、守ってみせる」
 このさやかちゃんに任せなさい、とウインクひとつ。
 そう軽く言ってみせるさやかを見て呆気にとられるのもつかの間。ほむらの表情に少しだけ笑みが灯った。
 美樹さやかという目の前の少女は考え無しで行動することばかりの少女ではない。そう見える裏で彼女なりに
悩みに悩みぬき、あらゆる想定を越えてその結論を出している。それが結果的にどういうものになるかはともか
くとして、その真剣さはほむらも充分に知っていた。
 だからこそ、さやかのその言葉には裏を読む事もなく照れもなく、ただ純粋に嬉しさがあった。
「私たちとほむらは友達で、仲間でしょ。これからも、ずっと」
 相手に期待すればするほど、裏切られた時の失望は大きくなる。だからこそ、ほむらは誰にも期待する事無く
心を開くことなく生きてきた。
 しかし少なくとも、今回はそうする必要はなかったのだ。斜に構えて相手の反感を買うようなことはしなくて
いい。
 信用に足る友人がいるのだ。信頼し合える仲間がいるのだ。
 望んでも得られなかった全てがこの世界にある。あとはただ一つ、この先にある大きな壁を破るだけ。
 きっと出来る。絶対に出来る。
 そう信じる事が出来るのだ。それが、友人であり仲間がいることの強さ。
 手から伝わる暖かさにほむらは目を閉じて、小さな声でそっとさやかに言葉を告げた。

 

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