@1 きっかけは突然だった。 いつだって、きっとそれは突然なものなのだ。 そしてそれは心の準備なんてものを許してくれない。 あるがままを、受け入れさせる。 それがどんなものであっても。 魔法と出会った。そして仲間と出会った。敵とも出会った。 衝突し、悲しみを苦しみを、そして別れを知った。世界を知った。 たくさんの出来事を経て、たくさん考えた挙句に管理局へと入局し、ずっとずっと、彼女は武装隊の隊員とし て管理局の仕事を続けていた。 海鳴の事件の時に出会った後に仲間となった魔導師たちに囲まれていた時とは違い、彼女のその力は誰もが畏 怖の感情を持つ強さを持っていた。武装隊の局員として、彼女は自らの実力の非凡さを実感する日々を送ってい た。 本気を出して、やっと拮抗。海鳴に居た時に出会った魔導師や騎士たちはそのどれもが非凡な能力を持ち、実 力も経験も申し分ない、文字通りの猛者たちが集っていた。それだけに、彼女は自分自身の才能の非凡さに気づ くのは後になってからだった。 彼女がひとり、現場に、前線に立つだけで、戦局が、パワーバランスがほんの簡単に大きく変わってしまう。 その事実に気づくのは、武装隊に入ってからそう時間は要らなかった。決して、同僚や同じ隊の人間が弱い訳で はない。それはあらゆる面から彼女はひしひしと感じ、実際に理解していた。ただ、海鳴のあのメンバーが桁外 れであっただけの話だと。 圧され、士気が下がっているような現場であっても、彼女ひとりが往けばたちまちその現状を覆してしまう。 始めはその幼さから珍しがられていたものの、次第にその実力を認められ、いつしか彼女が居なければ駄目だ と会う人会う人に言われるようになった。 そうして気づけば、誰かが彼女のことをエースだといい始めた。現場に欠かせない、強力な駒のことであるら しい。同じ部隊の仲間やあらゆる人たちに必要とされているその現実に、彼女は嬉しく思うのだった。 そしていつしかその二つ名は少し変わり、幼くしてエースの中のエース、つまりはエースオブエースと呼ばれ るようになっていた。 周りが大人ばかりの中で、そんな彼らから尊敬と羨望の眼差しを受ける彼女は、「高町なのは」はまぎれもな くエースであり、エースオブエースであった。 だからこそ、彼女は応えなければならないと思った。 誰かが望むのならば、誰かが求めるのならば、自分は往かねばならない。 自分が必要とされている限り、彼女はどんな時でも駆けつけた。 驕ることなく、自慢することなく、彼女は彼女のままでずっと戦い続けた。 そうして悲鳴を上げる身体を誤魔化しながら、自分の身体に嘘をつきながらずっと仕事を続けてきた。 その結果がこのザマだった。 任務が終わっても、現場に居る間は気を抜いてはならない。それは前線に立つ人間の鉄則であり常識であった。 いつ、残党がこちらへ牙を向けるか、いつ、情報外の敵が襲ってくるか分からないから。そして気を抜いた人間 はそう簡単にそれに反応する事が出来ない。 訓練校時代も、現場に立ってからもずっと彼女の上司・上官が口うるさく言っていたことだ。それ故に、ずっ と忘れていない筈であった。 そう、忘れていない筈だったのだ。 『……っ! ……のはっ!』 誰かが自分に声を掛けている気がする。なんだか身体の感覚がおかしい気がしていたのは、身体をゆすられて いるからと気づくのに、しばらくの時間を要した。 彼女は切れそうな意識の中で、必死に自分へと声を掛けている相手を見ようとする。目はなんだかしょぼしょ ぼするし、身体はとても重いし、少し身体を動かすだけでとっても痛くて、とても動けそうに無い。 「なのは! おい、なのは!」 あかい。 はじめに目に入ったのは赤い服だった。少し首を動かすと同僚の、涙でくしゃくしゃになっている顔が見えた。 「ごめんね…ヴィータちゃ……。大じょ……ぶ……?」 痛みを堪えてなのははヴィータへと声を掛ける。声が掠れていて、まともに聞こえていないかもしれないなん て、頭の中だけはやけに冷静に働いていた。 やがて、ようやくやってきた医療班の応急手当もそこそこに、なのははすぐさま局の病院へと運ばれた。 途切れ往く意識の中で、ヴィータちゃんを泣かせちゃったなと罪悪感に捕らわれていたなのはは、自分の身体 が運ばれる感覚をこそばゆく感じながらも、そのまま意識を手放した。 @2 「え……?」 なのはは自分の家族の言う事がまったく理解できなかった。 正確にはちゃんと聞こえているし、頭の中でもその言葉を理解出来ていた。しかしその言葉は余りにも唐突で、 そして今のなのはには理解が出来ないものであった。 「もういいんだ、なのは。なのははよく頑張ったんだ。もうゆっくりしても、誰も怒らないから」 「えっ、ちょ……お父さん!? 何言ってるの!? 私は大丈夫だよ? ちょっとリハビリしないといけないけ れど、またすぐに戻れるから!」 なのはは必死になって父、士郎の提案を拒否する。とは言うものの、身体は殆ど動かず、特に腹部の怪我がひ どく自力では起き上がれない。 その為、ベッドを軽く起こしての状態で、腹部に響くと大きな声も出せないので、彼女の悲痛な叫び声も普段 の声量とほとんど変わらぬものではあったが。 そんななのはの様子を見て、やはり彼女の父は心が重くなるのを隠す事が出来なかった。 末娘が入院した。そう管理局から連絡があったのは、つい先日の事だった。任務終了後に観測外の敵、つまり はアンノウンの襲撃により重傷を負ったのだという。 それを聞いた時、士郎は呆然とした。ただでさえ、最近はずっと仕事と訓練詰めで疲労が顔に出る程に疲れて いる事が多かったのだ。 それに見かねた家族が半ば無理矢理に休養を勧めたのだが、なのははそれを頑なに拒否し、仕事をずっと続け ていた。なにが彼女をそこまで動かしていたのか、あの時も分からなかったし今でもよく分からない。 「今回はちょっと気が抜けちゃってただけだから! もうこんな事にはならないから…」 あの時、無理にでも休ませていればこんな事にはならなかったのだろうか。 今回の負傷に関して、管理局から士郎や家族に対しての詳しい説明は未だに為されていない。しかし、今まで 大きな怪我無く仕事をこなしていたなのはが、これほどまでの怪我を負ったのだ。疲労の蓄積が一因にあるのは 想像に難くない。士郎は重くなった心をなんとか堪えながらも、なのはへと口を開く。 「次が、あるのかい?」 「えっ……?」 「今回は助かったけれど、次はどうなるか分からない」 リハビリが終われば、なのははまた戦線へ復帰するのだろう。そしてまた疲労が蓄積する身体と戦いながら、 自分を騙しながら仕事を続けるのだろう。その姿がありありと思い浮かべられるだけに、士郎は余計に心が苦し くなるのだった。 なのはに言ったとおり、次何かあったとして、その時にまた生きて戻れるか分かったものではない。 たった一度の失敗である。しかしその一度があと少し結果が違うものであったら……。想像もできない、考え たくも無い事が頭を支配しかけ、それを潰すかのように頭を抱える。 「それは……」 「頼むよなのは、お願いだから……」 父の懇願するような姿を見て、なのはは何も言えなくなった。 なのは自身だって分かっているのだ。今回の事故がどれだけ多くの人に心配を掛けたのか。 事故の直後に病院に運び込まれ、そのまま数日間眠り続けた挙句に、ようやく目を覚ました先の病室で待って いたのは、目の下に隈を作った二人の友人や騎士たちの姿だった。 今でも痛みでまともに動かない身体に抱きついてきた、金髪の友人の顔は涙と隈でひどいものだったのを、今 でも簡単に思い出せる。 顔を上げて父を見る。 普段の優しい容貌からはかけ離れたような、疲労によって精彩を欠いた表情が見て取れた。父の周りにいるほ かの家族にも、大なり小なり同じような表情が読み取れた。 「でも、私が管理局を辞めるのは……」 だがそんな父や家族の姿をみても、なのはは家族の提案に首を縦に振ることは出来なかった。 今、なのはは武装隊の中でもそれなりに有名人となっている。その所以である、彼女の実力を必要としている 部隊や現場は多い。そんな中で、自分の都合だけで簡単に辞める訳にはいかなかった。 自分が現場へと赴けば、それだけで多くの人が怪我をせずに済む。自分の存在があるだけで戦況を大きく変え られるのだ。それだけにあらゆる人間から重要視されていた。頼られていた。それを知っているからこそ、実際 にこの目で見ているからこそ、なのはは簡単に頷く事は出来なかった。 結局その日はそれ以上、何も話をすることなく面会は終わり、なのはの家族は地球へと帰っていった。 家族が帰ってからもなのはは悩み続けた。家族を困らせることはしたくない。それはなのはの本音であり本心 であるし、そもそも困らせることが分かっていれば、はじめから管理局になど入っていなかった。 しかし今のなのはは本局の武装隊の一員。組織の一人であり、そして多くの人に必要とされる、エースであっ た。 時期を同じく入局した友人たちへの引け目もあった。三人で頑張っていこうと誓ったのに、こんな怪我で一人 だけ脱落する。友人たちは甲斐甲斐しく見舞いに来てくれているものの、自分の時間を削って来ているのは明白 だった。 フェイトに関してはもうすぐ執務官の試験が控えている。本来ならば、見舞いなどせずに、勉強漬けの日々で あるはずなのだ。大丈夫だからと無理矢理引き離すようにしたのだが、それでもほぼ毎日のようになのはの病室 へとやってくるのだった。 はやてに関しても似たようなものだ。特別捜査官となるために日々努力を積み重ねているし、時間の合間を縫 っての聖王教会との面談など、スケジュールに関しては余裕がないはずである。そうである筈なのに、やはり毎 日のように見舞いに来るのだ。 そんな友人たちと離れるのは悲しいし、なによりたった一度の失敗だけで退くのは、なのはの選択肢には無か ったのだ。いくらその一度の失敗がこれほど大きいとしても、まだ挽回の余地はあるはずだ。辞めたくは、ない。 それでもだ。 やはりこの事はなのはの心の中に大小の差はあれど残り続けるだろう。幸い、今のところは悪夢になって出て きたりするなど、苦しめられることはないものの、いつどういう形で再び現れるかは定かではない。心配はして いないが不安は残る。 ならば、どうすればいいのだろうか。 なのはは悩み続けた。 確かに家族の言う事も一理ある。今回はたまたま助かっただけで、もう少し怪我の位置が変わっていれば命を 落としていた可能性だって十分あり得たのだ。 トラウマというほど心に強い傷は受けていないものの、あの時の事を思い出すだけで、今だに完治していない 傷口が傷むような錯覚がしてしまう。 シャツをまくり上げ、腹部の傷口をチラリと見る。ほんの少し腹筋を使うだけでまだ痛むために、首だけを動 かす形になりながらも、なのはは自らの腹部を見る。ガーゼと包帯で覆われたそこは、当時は風穴が開いていた のだ。思い出すと思わず身震いしてしまう。 この傷は、ミッドチルダの技術で傷跡は分からないほどに綺麗になるらしいが、だからといってこれと一緒に 心の傷もきれいさっぱり無くなるという訳にはいかないだろう。それに、綺麗に治るからといって治癒が早まっ たり、退院できる日が早くなる訳ではないのだ。十分な期間を以って身体を治し、リハビリを経て退院する。 そして、その先は? 自分はまた武装隊として復帰するのだろうか。それとも退役軍人として管理局を去り、海鳴へと戻るのだろう か。 武装隊として再び戻る。 それはなのはにとって、つい先ほどまでは当たり前の選択肢であり、そもそも他に選択肢が存在していなかっ た。身体の勘を戻すのにはそれなりに期間を要するだろうが、リハビリを終えて再び空に戻る時のことを考えれ ば、それも苦にならないだろう。 青い空を自由に翔けるあの爽快感。レイジングハートを手に持ち、立ちはだかる障害を共に越えていく。それ は今やなのはにとっての生きる意味、局員としてのなのはの存在理由にも等しい。だからこそ、離れるなんて考 えられなかった。 しかし今は揺れている。一体、どうすればいいのだろうか。 自分が管理局を辞めるといえば、みんなはどう言ってくれるだろうか。しょうがないと言うだろうか、それと も引き止めてくれるだろうか。 なのははそんな事を考えながら再びベッドへと倒れこむ。腹筋に力を入れるだけで激痛が走るので、重力に身 を任せるしかなく、そして自由に歩き回ることのできないこの現状にもそろそろ飽きてしまった。 十代になったばかりのこの時期に、これほどの大怪我をしたのだ。トラウマになると勝手に考えて、積極的に 退職を止めてくれる人はそういないだろうと、なのはは冷静になった頭で考えていた。恐らく必死に止めるのは、 それこそ自分がいなくなったことで大きな不利益を被る人で、尚且つなのはの都合を考えないような人くらいだ。 武装隊の仲間に関しても、自分がいなくなれば部隊の運用が少々つらくなるかもしれないが、それでも彼らはき っとなのはが決めたことに関しては受け入れてくれるだろう。その優しさが嬉しくもあり、そして悲しくもあっ た。 結局どちらを選ぶにしろ、周りの人間はそれを受け入れてくれるだろう。それがエースの、『高町なのは』の 選んだものであるのなら、文句は言えども、何も出来ない。彼女自身が決めた事であるのだから。 そして高町なのはが選んだ選択は――。 @3 憂鬱だった。 世界から色を失ったような、そんな感覚を味わっている。 なのはは自室のベッドの上で何を考えるでもなく、窓の外を眺めていた。 冬の空、やけにまぶしい太陽が、凍えるような冬の街を照らしていた。未だ身体に不調の残るなのはは、ベッ ドから動くことなくずっと窓の外を眺めていた。 もうずっとこうしている。学校が冬休みである事にかこつけて、一日中ずっと自室に篭っていた。最近はリハ ビリ以外で外出した記憶が無い。歩く事はおろか、起き上がるのでさえ未だに時間が掛かるほどなのだ。それを 分かっているからか、家族もこの現状については特に何も言ってきていない。それが今のなのはにとっては救い となっていた。 結局、なのはは家族の説得に折れ、管理局を去る事になってしまった。 友人や同僚、同じ武装隊の仲間たちはそれを惜しんでいたものの、やはりというべきか、引き止める人は誰一 人としていなかった。これほどの怪我を負いながらまだ仕事をしろといわない周りの人間の優しさは嬉しかった ものの、一抹の寂しさや悲しさは同時になのはの心にくすぶっていた。 その後管理局を去ってから海鳴へと戻ってきたはいいものの、それからすぐに、今まで通りの生活が出来るか といえばそうでは無かった。まず大前提として怪我が治りきっていない。本来ならばある程度回復するまでは局 内の病院にて治療を行う予定だったのだが、退役を決定するやいなや、車椅子で移動できるほど回復すると共に 地球へと戻されたのだ。 しかし大変だったのは退役し地球に戻ってからだった。ただでさえ車椅子での移動を含めて不便な事が多かっ たのに加えて、なのはは自身の魔法の一切を失ったのだ。 もともと地球は管理外世界の中でも、魔法技術の無い世界であったために管理局を辞めたなのはには、不用意 に魔法を使わないよう、強力なリミッターが付けられることになった。 魔力消費の激しい砲撃魔法である、バスターやブレイカーを楽々と放つエースオブエースの姿はもうそこには 無く、今では飛行魔法は勿論の事、バリアジャケットすら展開できず、今のなのはにはせいぜい短距離での念話 程度しか使えるものは無い。 レイジングハートも没収され、もともとの持ち主であったユーノの元へと戻ってしまった。管理世界への渡航 は禁止されていないものの、それに関しても厳しい制限が与えられ、実質なのはは魔法との関わりをほとんど一 切失ってしまったのであった。 憂鬱だった。 管理局へ入局してから、魔法を断った日など一日も無かった。武装隊として入局したのだから、ある意味では 当たり前なのかもしれないが、それでもなのははずっと魔法と共に在った。 目の前の困難を打ち砕くのはいつも自身の魔法であった。大きな壁が現れても、ご自慢の砲撃魔法で完膚なき までに打ち砕き、その壁を越えていく。 それこそが彼女、高町なのはであり、そんな姿があったからこそ武装隊の要として活躍し、そしてエースオブ エースであったのだ。 今や見る影も無い。なのはは自嘲しながらも、自身の左手を眺める。 そこに居るはずの相棒はもう居ない。レイジングハートも随分と嫌がっていたものの、定期的に、とはいえな いものの会う約束をすることでなんとか説得する事に成功した。普段はなのはの言う事を全面的に受け入れてい たレイジングハートの初めてともいえる反抗だった。それだけになのはは罪悪感に囚われながらも、しかし一度 決めた決定を覆す事は出来ず、自身の相棒とさえも別れたのだった。 自身の右手を見る。何も無い、ただの右手だった。力を込めても、ミッドチルダ式の紋様も、シューターも何 も周囲に無い。何の力も持っていない右手だった。 魔法の使えない高町なのはは一体何なのだろうか。 考えるまでも無い。魔法を失った自分はただの少女なのだ。どこにでもいる、何のとりえも無い、ただの少女 だ。 失ってから気づくものがあるとは何時の世も言われていることだが、こうして魔法を失って始めて、なのはは 己がどれだけ魔法に依存していたのかを理解したのだった。 学校で少々大変な事があったとしても、仕事で魔法を使えばなんでも忘れられた。 普段はあまり目立たない自分ではあったが、魔法を使う事であらゆる人から注目を浴び、羨望の眼差しで見ら れていた。 9歳のあの日まで、全く魔法を使わない、いやそれどころかその存在すら知らなかった生活をしていたにも関 わらず、それからのこの3年で、なのはにとって魔法は当たり前の無くてはならない存在となっていた。無くて はならない、その程度の表現では収まらないだろう。どんな時でも魔法を頼り、自らの魔法を信頼し、そして突 破する。あの日から魔法はなのはにとって切り離せない、失うことを考えることすらしない"あたりまえ"へと変 化した。そう、なのはにとっての魔法は、自らの存在意義と同義であると言えたのだ。 それだけ自分の中で大きな存在であった魔法を手放した今、なのはの心の中にはぽっかりと埋まる事の無い穴 が空いていた。 「みんな、何してるんだろう」 考えるまでも無い、友人たちはきっと仕事で忙しいに違いない。フェイトは執務官補佐として働く傍ら、もう すぐ行われる執務官の試験へと最後のスパートをかけているだろう。はやても特別捜査官の資格を得るためにデ スクワークはもちろんのこと、現場指揮や捜査など、実務を自身の家族であり部下である騎士たちと勤めている に違いない。 そして自分。 管理局を去り、魔法を使える少女ではなくなってしまった。今の自分はただの少女。魔法の使えない、地球の どこにでもいる、ただの、女の子。怪我で動けない、女の子。 憂鬱だった。 生きる事に意義を見出せない。自分は何をして生きていけばいいのか分からない。 自らの半身ともいえる相棒、そして存在意義である魔法を失い、彼女は何も出来ないでいた。 魔法を使えない自分を必要としている人なんて、どこにいるのだろうか。魔法を失った今、自分はこの世界に とって本当に必要な存在なのだろうか。 一人で部屋に閉じこもっていると、当て処ない考えのベクトルは次第に自分の内側へと向かっていく。それは 考えていることの方向性を定め、そして加速させるのだ。ポジティブはポジティブを加速させ、そしてネガティ ブはネガティブを加速させる。悪い考えはどんどんそれを膨らませていき、それはいつしか自分ひとりでは処理 しきれないほどのものになっていた。 魔法は最早自分が自分であることの理由の一つであった。高町なのは=魔法、とまではいかなくても、≒くら いなら、あながち間違いではないといえたのだ。それくらい、魔法と自身はくっついた存在であったのだ。現在 の高町なのはを構成する大部分であった。 そうでありながら魔法を失ったのだ。では、今の高町なのはには一体何が残っているのだろうか。今の高町な のはは一体何者なのだろうか。 生きている価値はあるのか、そこに居る価値はあるのか、存在の価値は在るのだろうか。 からっぽだった。 魔法の無い自分はからっぽだった。 しかしその魔法も生まれた時から持っていたものじゃない。9歳のあの日あの時、ユーノが居たからこそ、 ユーノと出会ったからこそ得られた力だ。だから言うまでも無く、元々持っていた力じゃないのだ。 じゃあ。 それならば、後天的に得た魔法を取った何も残っていない私は、もともと何も持っていなかったのじゃないか。 それを、たまたま偶然手に入れてしまった魔法というものがあったために、こんな勘違いをしてしまったのじゃ ないだろうか。 私という存在は、高町なのはとは一体、何だろう。 私とは、一体何なのだろう。 何も、分からない。 憂鬱だった。 @4 冬が明けて春になった。 新学期が始まり、高町なのはにとっての小学生最後の一年間が始まった。 しかし、なのはは学校に登校する事はなかった。 未だ補助器具や車椅子なしでは満足に移動することが出来ないということもあるが、外の世界に何も興味を見 出せなくなったことが理由に大きい。 アリサやすずかといった、海鳴の友人たちも何度か見舞いに来たこともあり、なのはのその姿にいても立って もいられず、無理矢理外に連れ出そうとしたものの、なのはの想像を絶する拒絶によってそれは為されることは なかった。そうしていつしか、彼女が二人の来訪を拒否していることに気づいてからは、二人が見舞いに来る頻 度も減り、そして今に至る。 部屋の外では桜が咲き、花びらが舞い踊る。春を告げる鳥が元気にその声を響き渡らせ、無邪気な子どもたち の元気な声がなのはの部屋にまで届く。 しかしなのはは、それら全てに何も心を動かされることは無かった。 始めこそ、魔法と出会った頃を思い出し静かに涙することはあったものの、心の枯れた彼女にとって、それ以 上もうなにもすることは無かった。 ただ無気力に、ベッドから外を眺め、生きるために最低限必要な行動を取るだけの毎日。 ずっとこうしている。 ひたすら、時が過ぎるのを何かを思う事もなく、ずっと眺めているだけ。 そんな日々がずっと続いていた。 なのはは空を眺めていた。 しかしその瞳は空を映しておらず、そのもっと向こうの世界、この地球のほとんどの人が知らない世界、次元 世界を映していた。 管理局を退職し、次元世界との繋がりはほとんど無くなったとはいえども完全に切れた訳ではなく、時折術後 経過の確認の検査の為に本局へと赴いたり、頻繁にという訳にはいかないものの管理局で働く友人たちと会うこ とは許されているために連絡を取り合って会うことはあった。 そして今日はその管理世界で働く友人たちが、見舞いに来る日であった。 なのはが魔法を知るきっかけとなった、PT事件で知り合った大切な親友であるフェイトと、退官の直前まで同 じ部隊に居たヴィータの二人が今日はやって来るそうだ。 しかし、それを聞いてもなのはは心が動く事はなかった。あぁ、また来るのか。今のなのはにとっては、それ くらいしか思うところが無い。 二人がやってきたところで、別になのはが何か変わる訳ではない。彼女はずっとこのままであった。何度来よ うと、誰が来ようとも、彼女はずっとそのままであった。 だからこそ、彼女は心を動かされる事なく、ただ空を眺めていた。 沈黙が部屋を支配していた。 ベッドの上で半身を起こして窓の外を眺めるなのはと、その現状に何も言えないでいる金髪と赤髪の少女が二 人。 ずっと、このままなのだろうか。 ついこの間までの花のような笑顔を振りまく少女の姿はそこには無い。意志の無い、人形のような少女がそこ に居るだけ。 なのはが海鳴に戻ってからも、彼女達は何度もここへ足を運んだ。しかしその間もずっと、外へ意思を表出す ることなく、まるでそこには一人しか居ないかのようになのはは静かにそこに居るだけであった。 なのはのその様子に、二人は何も言えないでいた。 ずっと、この調子であった。 何を話しても反応が無い。 近況を話しても反応がない。近況を聞いても反応がない。ただ、彼女は空を眺めているだけであった。決して 二人を見ない。それは拒否であり拒絶であった。 何故彼女がこうなったのか。何故こうなってしまったのか。想像はつくが、真実は分からない。つまりは結局、 理解が出来ない。今の高町なのはは何なのか。どうすれば以前のなのはに戻ってくれるのだろうか。家族は勿論 のこと、なのはの友人であると自負している人は皆が皆、その一点を考えていた。 少なくとも、原因は分かっている。あの撃墜事件、そして局員からの退役。しかし、だ。それが何故ここまで なのはが心を閉ざす原因となったのかは、誰にも分からなかった。 結局のところ誰も、なのはの、なのは自身すら今まで気づかなかった心の奥底を理解出来なかった。今も、そ して以前も。 それがこの結末を生み出した。 あぁ。だから結局どうすればいいのだろう。どうすれば元に戻るのだろう。いやそもそも元に戻る手立てはあ るのだろうか。 分からない。分からない。 ずっとこのままで、じっとしているこの状況で、果たして何が出来るのだろうか。何も出来ないのだろうか。 そのまま沈黙が続くと思われたところで、ふとヴィータの許に通信が入った。二人に一言その旨を告げ、ヴ ィータは通信回線を開く。 「あ、はやて」 通信をしてきた相手は八神はやてであった。ヴィータの大事な家族であり、なのはの大事な友人であるはやて は簡潔に用件を告げた後に、なのはの方へと視線を向ける。 「こんにちはーなのはちゃん。リハビリはどんな感じやー?」 努めて明るく挨拶をするはやてではあったが、この現状については以前になのはの家へ何度も行っていたので、 知っていた。一縷の希望を持って声を掛けてみたものの、やはり、彼女は何も答えない。 分かっていた。予想もできていたし、想像もしていた。しかし、やはりあの天真爛漫な彼女がこのような姿の ままでいるというのは、心苦しく感じるものがある。 自分たちは一体なにが出来るだろうか。 自問を続けてもそこに答えが出ることはなく、彼女自身が戻ってくれることを願うしか、方法はなかった。 はやてもこの現状を何とかしたいと思っているし、今回も二人と一緒に行きたかった。しかしはやては以前の なのはの様に、管理局で仕事をこなす人間であった。通信で話しているように、都合が合わすことが難しい現状 がある。 だからこそ、せめて通信ででもなのはと連絡を取ろうと、空いた時間を利用して、こうして話しているのだ。 しかし結果は目の前の通り。なのはは全くはやてと取り合おうとしない。 目の前にいる二人にさえ、反応しないのだ。通信で話しかけてくるはやてに、反応などありえない話だった。 通信を切ると、再び沈黙が部屋に訪れた。静寂。しかし今度の沈黙はそう長くは続かなかった。 ずっと窓の外の空を眺めていたなのはが、おもむろに顔を二人へ向け、口を開いたのだった。 「ねぇ、楽しい?」 弱弱しく、芯の無い声だった。以前の彼女なら、こんな声は絶対に出さなかった、いや出す事すら知らなかっ たような、そんな声だった。 彼女の声を聞いたのはいつ振りだろうか。そんな事も一瞬頭に浮かんだものの、それよりも、なのはの言った 言葉の真意が分からなかった。 「なのは……?」 フェイトが堪え切れずに彼女の名前を呼ぶ。 なのはの声は確かに力強さや意志を感じられないものであった。しかし、そこには何か、別のものが感じられ た。 そう、それは何と形容すれば良いのか。 その正体が掴めずに、フェイトとヴィータはなのはを窺うものの、彼女の顔からは何も読み取ることができな い。 彼女の顔にはやはり変わらず色がなく、無表情であった。 しかしそれこそが、二人にとっては不気味だった。どんな時でも感情を忘れない。それが二人の知る高町なの はであったはずだ。だからこそ、こんな彼女は彼女らしくないし、そして怖いのだ。目の前の少女は、本当に自 分の知る高町なのはなのか? そんな疑問が出てくるほど、彼女は変わり果ててしまっている。その彼女が、そうなってしまってから始めて 聞いた言葉。その言葉は、理解の外にあった。 「私をいじめて楽しいの……?」 彼女は視線をそらし、俯く。そしてそのついでのように彼女は口を開く。 彼女が小さいながらも、はっきりと聞こえる声で言った言葉。それはフェイトとヴィータの思考を止めるには 十分すぎる言葉であった。 「なの……は…?」 彼女の言葉は、正真正銘、二人の思考の理解の外にあった。自分たちがいじめているだと? そんなまさか。 自分たちはその真逆だ。今の彼女をどんな相手からも守ってみせると、そして彼女のためならどんな手を使って も、元に戻してみせると、そう断言出来るほど彼女の味方であるはずだ。 そう自負している自分たちに、彼女は、そう聞いてきたのだ。 いじめてるのかと。 楽しいのかと。 「私はね、魔法が使えないの。もうずっと。ずっとずっと、毎日当たり前のように使ってた魔法がもう何にも使 えないの。空も飛べない、レイジングハートも手元にない。私は何にもできないの」 ぽつりぽつりと、ゆっくりながらも、そして小さいながらも彼女の口から出る言葉は、この沈黙の世界では針 で突くよりも鋭く、二人の思考を突き刺していく。 しかしそれでも、彼女は変わらず感情がなく、無表情で。じっとそのままで。何かを変えようとしている訳で もなく。ただ何かをしようとしている訳でもなく。誰かに聞かせるつもりも無く、ただ口を開いて、言葉を紡い でいた。目は虚ろではないが視点は定まらず、生気を感じられない身体はほとんど動くことなく。置物のように、 人形のように、ただそこに居た。 数瞬の沈黙。それは先ほどまでの沈黙と、なんら変わりの無い沈黙のはずであった。しかし、フェイトヴィー タにとっては、今のこの沈黙がなによりも、つらく、押しつぶされるようで、貫かれるような苦しさを全身に感 じていた。 彼女が圧迫感を出している訳ではない。いうなれば、彼女が出しているのは負のオーラとも言うべきものだろ うか。中てられると、心がやられる。その類のものだ。 俯いていた彼女は徐に顔を上げ、再び二人のほうへと顔を向ける。やはり、その顔には、感情という色が無か った。 「そんな私の目の前で、魔法の話をして、魔法を使って。ねぇ、私をいじめてるの? 私をいじめるのが、そん なに楽しいの?」 表情はかすかに笑っているようにも見える。だがその笑顔は皮肉をもって相手をえぐる。 その声が、その感情が、笑顔を笑顔と認識させない。ただただ、目の前の二人の心をえぐるだけのものであっ た。 堪らず、フェイトが身を半分乗り出すような体勢になりながら口を開く。 「違うよなのは……」 しかしそんなフェイトの言葉を遮り、拒絶するかのように、言葉を被せる。 「帰ってよ。ねぇ、かえってよ」 彼女が発するその声の強さは、確かに望んでいたものだった。しかし、その声色には望んでいたものが無く、 彼女の表情には求めていたものは無く。 先ほどと変わらない彼女は、ただそれだけを口にする。拒絶を。拒否を。 「かえってって言ってるでしょ。かえってよ、ねぇ。帰ってよ! かえってよぉ!」 感情の色が乗せられていなかった彼女の言葉が、悲痛な叫び声となって部屋に響き渡る。 そんな彼女に対して二人は何も、出来ない。何かが切れたように叫ぶ彼女を止める手立てを二人は、持たない。 「帰ってよ!」 涙を流しながら、憎悪と悲哀の混ざった声で泣き叫び、辺りにあるものを手当たり次第に投げていく。手元に ある枕を、窓際にあるぬいぐるみを。手につくものを二人へと投げてゆく。 力無く投げられるそれらは、当たったところで痛くはない。元々柔らかい素材であることに加えて、快復しき っていない彼女には、ほとんど投げる力などない。 しかしそれでも痛い。痛かった。身体ではなく、別の場所が痛かった。 二人は何も出来なかった。力無く、泣いて、叫んで、辺りのものを投げてくる彼女に対して、何も出来なかっ た。彼女のその姿に、自らの無力に堪えることが出来ず、ただ目に涙を浮かべながらも、何も出来なかった。 そして彼女を背に溢れる涙を止めることなく、二人は部屋を去る。 その後にはずっと、彼女の泣き声だけが、部屋に残っていた。 -了-