玄関のドアを間隔をあけて二度叩く。それが私の来た合図。彼女はそれに気づくと私を家に入れる。
「あぁ、アリスか。入ってくれ」
ドアを開けて家の中を行くとそこには窓際のベッドで半身を起こして本を読みふけっている彼女がいる。
「毎日毎日悪いな。アリスが毎日会いに来てくれるなんて私もまだまだ捨てたもんじゃないな」
「何言ってるの。私が来なければそこらじゅうに本が散らばったままになるじゃないの」
彼女は本から目を離し、困ったように笑いながら私を見てくる。その笑顔はどれだけ経っても変わらない。
「アリスには迷惑かけるよほんと。香霖のやつも時々は来てくれるんだけどな」
「いいのよ、私が好きで来てるんだし。ほうじ茶でよかったかしら?」
「あぁ、頼むぜ」
「客人に淹れさせるだなんて、一体家主は何をしているのかしらね」
「全くだぜ」
いつもの変わらないやりとり。それだけで、彼女の体調が今日も"保っている"ことを理解する。
お茶を淹れ、彼女の横に座りいつものように他愛のない話をする。
ある程度話が済んだところで、もうほとんど歩けない彼女に代わって身の回りの家事をこなす。以前は足の踏
みどころを作らなければ入れないほどのゴミ屋敷に近い彼女の家も、年を経るにつれて段々と物が減り、今では
彼女の家とは思えないほどすっきりとしている。
あらかた用事を済ませると私は再び彼女の横へと戻る。口は相変わらずであるものの、ほとんど寝たきりの状
態になってからというものの、彼女はやはり静かになった。
それはあらゆる要因があるのも理解しているし、"人間"とはそういうものであると分かっているつもりであっ
たがやはりこうなると、……少し、寂しい。
「最近は幻想郷も静かだなぁ」
「そうでも無いわよ。今だって時々誰も彼もがしょうもない異変を起こしては、博麗の巫女が解決しに行ってる
もの」
「そうか……」
魔法の森から出なくなって久しい彼女の世界は大きく縮まってしまった。
昔こそ、幻想郷中を自分の思うままに動き回っていた彼女だが、やはり人間は年には勝てない。
彼女と私の共通の「人間」の友人は、殆どが既に逝ってしまった。
紅魔館のメイド長だった咲夜は最後まで吸血鬼になることを拒み、人間であることにこだわっていたらしい。
彼女が逝ってから数年はレミリアは殆ど館から出る事は無かった。今でこそ、レミリアは以前と変わらないよう
に戻ったように見えるが、その時々に咲夜を呼ぶような仕草が見て取れるのが見ていてつらい。
博麗の巫女であった霊夢は身体のピークが過ぎるのを感じると、さっさと次の博麗の巫女を紫とともに探すよ
うになっていた。今の博麗の巫女は更にその次の代である。当の霊夢はというと、かなり長生きをしていたのだ
が、つい数年前に天寿を全うした。最後まで自分のペースで生きていたと聞く。
そして霊夢と同じく、神に仕える早苗は、現人神であるその性質と幻想郷の地の利を生かしてそのまま神にな
ることも出来たのだが、それをしなかった。どうやらたまたま幻想郷に迷い込んだ外来人が彼女の知り合いであ
ったらしく、そのまま結婚し子供を授かり、順調に風祝としての仕事を継がせていった。そしてその数年後、流
行病の為に亡くなった。いや、正確には流行病を治すため、彼女の力を行使したその結果であるのだが。霊夢が
ひどく泣いていた事を覚えている。後にも先にもあんなに弱気になって泣いていた霊夢は初めてだった。
白玉楼の庭師はその性質上、未だにピンピンしている。少し成長したような気もするけど、やはりまだまだ半
人前だと主に事あるごとに弄られるのは変わっていないようだ。
竹やぶの不死鳥は……言うまでも無いだろう。まだ歴史の編纂者も生きているので彼女も悲しみに暮れること
はまだしばらくは無さそうだ。
妖怪たちは相も変わらず皆自分の調子で生きている。大妖怪と呼ばれるような妖怪たちは勿論の事、夜雀や九
十九神、天狗や河童たちも能天気に生きている。妖精もまた然り。
新しく幻想入りした妖怪たちもたくさんいる。そして同時に幻想郷に入る前に消えてしまった妖怪、幻想郷で
も消えてしまった妖怪もいる。
「しかし、やっぱりというべきか、一人でいると静かだよなぁ。そのうち聞こえちゃいけないものまで聞こえて
競うだぜ」
「今は私もいるけど」
「分かってるぜ」
彼女は結婚しなかった。人里にはそれなりに彼女の事を女性として好意的に見てる男は多かったと思う。事実、
彼女にその好意を打ち明けた人も居た。しかし彼女はその全てを断っていた。
彼女に告白した人のほかにも彼女を好いている人はいただろう。しかし、彼女の住んでいる場所故に、そこま
で近づく事が出来ず、結局諦める男が多かったのも事実である。そうしていつしか彼女は年を取っていた。
……私たち妖怪は、精神の在りようが肉体に大きく影響される。勿論、姿かたちを変えることも出来るが、基
本的な姿は精神の年齢や在りようがそのまま現れる。かといって、数年で大きく姿が変わることは無い。彼女が
"人間"として年老いていく中、私はその姿を変えることなく、彼女と出会ったその時から変わらない姿のまま、
ずっと彼女と共に居た。
「なぁアリス……」
ずっと窓の外を眺めていた彼女が不意に話しかけてくる。その声色に、私は何か嫌な気配を感じ取った。
「アリスからずっと借りていた本、そろそろ返そうか?」
彼女が言ったその言葉、以前であれば喜んでそのまま受け入れていただろう。しかし今は違う。
彼女が"今"言った理由が容易に想像できた私は
「やめて」
「もう読まなくなって本棚に仕舞ったままだしな。そろそろ返そうと思って」
「やめて!」
耐え切れなくなって叫ぶ。
彼女が私から「借りた」その本は、
「それは貴女が死ぬまで借りるのでしょう? ならずっと持っていてよ。死ぬまで持っていてよ。……返すだな
んて、言わないで」
涙が止まらなくて、耐えられなくなって、彼女に抱きつく。そんな私を困ったように笑いながらも、抱きしめ
返してくれる。余計に涙が止まらなくなる。
正直、昔の自由奔放な彼女が苦手な――あまり好きでない――時があった。それは様々な理由があったし、私
自身がまだ若かったという事もあるけども、それでも彼女の事を思い出せばあの頃がすぐに思い浮かぶ。
あの頃も、そして今の彼女はずっと彼女なのだ。
幻想郷で最も付き合いが長く、深いのが彼女なのだ。交流する幅は確かに広いが、その中でも一番関わりが深
い。同じ魔法の森に住み、そして魔法を研究する。同属の意識もあるが同時に様々な事を分かち合う、血の繋が
らない家族のような、そんな温かさも感じていた。
だからこそ、彼女が逝くことに耐えられない。
「……ごめんなさいね。少し動揺してたわ。今日はこれで帰るわね」
それからしばらくして、彼女はこの世を去った。
縁を切ったとはいえ、彼女は霧雨家の令嬢であることに違いは無かった。現霧雨家の当主が喪主を務め、式は
彼女を知るごく少数でしめやかに行われた。
今でも時々彼女の家に向かうことがある。家には彼女のかけた魔法が、彼女の死後もずっと残っているお陰で、
彼女の邸宅は崩れることなくずっと残っている。
間隔をあけた2回のノックをして扉を開ける。そして今は誰もいないベッドの隣で紅茶を飲みながら、窓の外
を眺める。
雨が降ってきた。静かな魔法の森に音が生まれる。
……ほんと、魔法の森って陰鬱。
まだ、流れる雨は止まらない。