「し、仕事が終わらない……」
 夜の鎮守府。そのとある庁舎の中の提督執務室。警備に必要な最低限のみの灯しか点されていない鎮守府の中
で、その一室だけが、日中と変わらない様子でその室内を照らしていた。
 時計の針は既にしばらく前に天辺を越えて久しい。
 普段は隣にいるはずの秘書艦もこの時間には執務室にいる筈も無く、ただ一人黙々と溜まった仕事をこなす提
督の姿だけがそこにあった。
「今週中になんとか出来る量じゃないぞこれ……」
 つい弱音を吐くのも無理はない。普段であれば、これほどまでに仕事を溜めることなどありえない事で、それ
こそまさに時運が悪かったとしかいえない。
 大本営からとある海域への集中攻撃を命じられたのが今月の頭。それまでは普段通りの艦隊運用で問題はなか
ったのだが、それにより一気に状況が変わってしまう事になる。以前から噂はあったために資材は備蓄していた
ものの、倉庫の最大貯蔵量を越えたことで別の倉庫を使うにあたっての申請がいくつか、そしてそれと時を同じ
くしていくつかの艦艇の更なる改造の可能性が知れることとなり、それらに伴う数々の諸作業が一気に降り掛か
って来たのであった。
 その結果がいまの山のような仕事量であり、それらを一つ終わらせる間にみっつの新しい仕事が増えるといっ
た具合で全く終わる気配を見せていない。
「はぁ……寝たいけれど、どうせまた朝になったらどんどん書類が増えていくんだし……。せめて出来る分だけ
は捌いとかないと……」
 眠気覚ましにと既に冷めきった珈琲をぐいと飲み干し、再び目の前の作業にとりかかる。
「ほんと、どれか一つでも時期がずれていればまだ楽だったものの……」
 ため息を吐きながら黙々と目の前の仕事を消化する。愚痴をこぼしたところで仕事の量が減る訳もなく、目の
前には現実として書類の山が机の上に居座っていた。これが終われば次はそれ。それが終われば次の書類。この
書類の確認が終われば次はその書類……。
 淡々と、しかし素早くそして正確にそれらの書類の確認や署名、別の書類への書き換えなどを行う。
 楽するのならばここで作業を中断して休むのも手だ。しかしどの道この書類は捌かねばならないもの。それな
らば先にやっておいた方が後々楽になる。何よりも後々に回してその時に想定外の出来事が起こらないとも限ら
ない。
 出来る事は全て出来るうちにやっておく。それがこの提督の現在の方針であった。それが今この提督を苦しめ
ていることになっているのは明白なのだが。
 と、そこで唐突に執務室の扉を叩く音がした。
 控えめながらも夜の静寂故に響いたその音は、当然の事ながら執務室の主である提督にも聞こえ、作業を一時
中断してその視線を扉の方へと向ける。当然の事ながらガラス張りでもない為に扉の向こうにいるのは見えない
し誰か分からない。
 こんな夜遅くに一体誰だろうか。
 寝静まった中で仕事をしている自分も自分だが、こんな時間に執務室へと足を運ぶのも中々に理解し難い。
 予想のつかない来客の得体の知れなさに、すわ妖怪かと少しばかり返事をするべきか考えていたがすぐに馬鹿
らしくなり、はいと通る声で扉の向こうの正体不明へと入室の許可を返事を出した。
 少しの間を置いて扉が開かれ、正体不明がその姿を表した。
「やぁ司令官、こんな遅くまでお仕事かい。精が出るね」
 そこに立っていたのは暁型の二番艦、響であった。
「あぁ、響か。こんな夜遅くにどうした?」
「いやなに、眠れなくてね。少し鎮守府を散歩していたら司令官の部屋に明かりが灯っているのに気づいたから、
ここにやってきたという訳さ」
 入ってもいいかいと少し遠慮がちに問うた響を拒否する筈も無く、勿論と迎え入れる。
 応接用の椅子にちょこんと座った響を視界に入れて、提督は少しばかり思考を巡らせる。
 駆逐艦、響。
 直接の部下ではあるものの、彼女との接点は他の艦娘に比べるとあまり多くはない。
 一番大きな理由としては彼女が駆逐艦という小型艦である故の戦力の都合上というものが挙げられるが、それ
を除いても提督と響の間には上司部下の関係以上のものはなかった。
 そもそも、この鎮守府の特にこの提督に指揮下において、駆逐艦という艦種はあまり活躍する機会に恵まれて
いない。
 着任時の最初期秘書艦である電、駆逐艦としては破格の性能を持つ島風・雪風を除いては殆どの駆逐艦は遠征
要員として各地を巡るか、もしくは待機要員として訓練に励む以外には無かった。
 響も他の多くの駆逐艦と同様でありその多くを遠征要員として駆り出され、燃料やその他の資材を持ち帰った
り、商船護衛の任に着くなどしていた。
 もちろん初期秘書艦の電と同型艦であるために、その絡みで他の駆逐艦よりは話をする機会は多かったものの、
それでもやはり電という秘書艦が間にあってこその会話であったためにそこから更に親しく話をする機会はほぼ
無かったといえる。
 だからこそ、このようにこんな時間にふらふらと執務室にやってくるような気軽な関係でもないし、ある種の
逢い引きのようなこんな会い方もする筈なかった。
 響の目的が分からない以上、どうすればいいものかとしばし悩んでいた提督であったが、やがて目の前に積ま
れた書類のことを思い出し、ゆっくりしてくれと言い残した後に再び仕事に取りかかった。
 突然の出来事に悩んでいても仕方がない。それよりも、自分は目の前の仕事をなんとかしなければならないの
だ。心の中で涙を流して悲鳴を上げながら、提督は仕事の山をばっさばっさと切り崩していく。

 それからしばらくした後、ようやく山のような書類仕事に一区切りついて一息ついた頃、響はまだ執務室の中
に居た。
 行儀良く応接椅子にちょこんと収まるように座り、室内をしげしげと見渡し、時間を潰していたようだった。
 一息ついた提督の気配を察して向き直り、にこりと小さく笑い、徐に口を開いた。どうやら提督の仕事が終わ
るのを待っていたらしい。
「司令官、お疲れさま。随分と仕事が溜まっていたようだね。これで仕事はおしまいかい?」
 響がこの部屋に来てから経過した時間は十分や二十分という短い時間ではなかった。
 彼も仕事に取りかかっていれば、自然とそのうち自ら帰るだろうと思っていたためにまだ部屋に居たことに対
しての驚きがあった。
 何か自分に言いたいことでもあるのだろうか。
 直談判というものだろうかと彼は少し考えたがその素振りも全く見えない為に、余計に真意が見えないでいた。
「響、こんな遅くまで起きていて大丈夫か。不眠なら、薬を処方してやることも出来るが」
「あぁいや、大丈夫だよ。ずっとここに居たのは今は眠れないからじゃなくてね」
 一旦言葉を止め、響はふふと笑いながら再び口を開いた。
「お疲れの司令官に、ご褒美をあげようと思ってね。少しだけ、どうだい」
 そう言って取り出したのは、四合瓶よりも一回りほど小さな瓶であった。
「……お酒かい」
「あぁそうだよ。露西亜で一般的なお酒、vodkaだよ。お仕事で疲れた身体に一杯、どうだい。とても効くよ」
 どうしてそんな物を持っているのだろうか、そしてどうして今のような時機にそれを持っているのか、などと
いう疑問は尽きないが、敢えて何も訊くことなく流す。
「そうだな……」
 ――出来ればもう休みたいところだ。ここ数日は徹夜の連続で、体力に自信のある軍人といえどもさすがに身体
に疲労が溜まっている。
 しかしせっかくのお誘いだ。しかも女性からわざわざ誘ってきてくれている。無下に断るのも彼女に悪い。
 少しの間どうしたものかと考えた後、彼は響の誘いに乗る事にした。
 備え付けの棚からグラスを二つ取り出し響の対面の応接椅子に座り、それぞれの前にグラスを置く。
「明日に響くから、少なめでな」
「あぁ、勿論さ」
 そう言って響は両方のグラスに一杯になるまで並々と注いでいく。
 思わず絶句した提督を無視して響は自分のグラスを手に取る。少しの間固まっていた提督は我に戻って観念し
たかのようにため息をつき、並々と注がれたグラスを手に持つ。
「では今日の平和と、提督の仕事終わりに」
「素敵なレディに誘われたお酒と明日の更なる平和に」
 乾杯。
 グラスを交わす心地よい音が執務室に響く。
 ウォッカといえばどんな酒だったろうか。確か度数の高い酒であることは記憶にあるが、と一瞬様々な考えが
頭の中に走ったが、乾杯した以上口をつけねばならぬ。ええいと半ば自棄気味にぐいと大きく飲み込む。
「……、案外すっきりしてるんだな」
「飲みやすさがこの銘柄の特徴なんだよ。味や香りもそこまで強く主張しないものだから、他と割って飲んでも
美味しく味わえる」
 お気に入りなんだと、はにかみながら響は言う。
 本来ならば響の様な幼子が酒を所持していたこと、明日も勤務がありながらこうして酒を嗜むことに対して、
司令官という立場上注意しなければならないのだが、今の彼にその気配は見えなかった。
 艦娘という存在は今の状況では現状を打破する可能性をもつ唯一の存在だ。
 見た目こそ艦艇の種別・等級や排水量などで違いはあるものの、実際の能力は見た目からは窺う事の出来ない、
遥かに強力なものを持つ。
 特別視する訳ではないが、それでもやはりこの子らだから、という見方は排除しきれない。
 内外から大きな期待と重圧が自覚のあるなしに存在している。だからこそ、彼女らが好きに出来る時くらいは
それらを許容出来るくらいのことはしてやりたい。彼女らとて、元はといえば普通の少女なのだから。
 それが彼の心の内であり、同時に彼女たちに向けた期待でもあった。
「まぁ。…たまにはいいか」
 それは自分への言い訳か、彼女への許しか。独り言のように呟いたそれは響に聞こえることなく、酒とともに
飲み込んで消える。
 まだ一杯目を空けていないものの、既に彼の身体には酔いが廻り始めていた。決して下戸な訳ではないが、仕
事疲れであったことに加えて、元々度数が高く飲み慣れていない酒であった為に早々に酔いが廻ってきていた。
 ちびちびと飲みながら響と他愛のない話を続ける。初めにあった微妙なぎこちなさは酒のおかげか既に失して
おり、両者ともに緊張がほぐれたような姿で語り合っていた。
 普段の勤務時では話さないようなこと。馬鹿らしく、楽しく、そして愛らしい日常の出来事をつらつらと酒と
ともに飲み込む。思いは巡るがそれは形にしてはならないもの。
 響は既に一杯目を空けようとしていた。一方彼のグラスにはまだ半分以上残っている。
 冗談まじりにまだ飲むのかと聞くと勿論と響は応えた。露西亜に縁のある艦艇として、酒は嗜むのが当然のも
のであるらしい。
 彼女にとっては大きく感じるグラスを両手に持ち、二杯目をちびちびと飲んでいく。それを眺めていた提督は
ゆっくりと自分のグラスに口をつけ、ぐいと呷る。飲みやすさもあって酒が進んでしまう。そしてなんだかんだ
で二杯目を響と同じように飲み始める。
 取り置いていた菓子をつまみとして出して、二人で食べ、一緒に酒をちびちびと呑み進める。
 さすがに響も酔いが廻ってき始めたのか、血色が良くなり顔に少し赤みがみられる。が、既に酔いが随分と廻
っている彼にとってその違いは"そんな気がする"程度でしか認識することが出来ずにその機微を見抜けないでい
た。
「響は酒に強いんだな」
 そんな事を言ってしまうくらいには彼の身体には酔いが廻っていた。しかし幸か不幸か、彼も響も酔いが顔に
はほとんど出ない種類の人間。双方ともに相手が既にかなり酔っていることに気づかないままでいた。
「ソヴィエトロシアでは酒が私を強くする!」
 突然やや大きな声でそんな事を言い出した響にびくりと反応する。何の事かと一瞬混乱したがやがてその意味
を理解した。
「露西亜的倒置法か。響はそんなジョークも知ってるんだな」
「まぁこれで合っているのかは分からないのだけれどね」
 二人して笑い合う。
 駆逐艦、響。接点があまり多くなかったこともあって、彼女のことをほとんど知らないことを今更ながらに提
督は気づかされた。
 命令を下す上司である以上、あまり多くを知りすぎて情が移ってはならぬ。あらゆる事態において常に冷製な
判断をするためにも、適度な距離を保っておかなければならない。それが艦隊司令としての鉄則。しかしそれと
同時に、最大限の力を発揮させるには多くの事を知る必要があることもまた事実。
 その適切な距離の見極めが出来る人間こそ、上に立つべき人間なのだ。その点で言えば、彼はあまり適任であ
るとはいえない。今の部隊に配属されて短くない時間を彼女らと共に過ごしているが、未だにその適切な距離と
いうものを見出せずにいる。だからこそ彼は悩み、彼女らはそんな彼についていくのだが。
 頭の中に浮かんでくるそんな様々ないろいろにつらつらと意識を流して考えているところで、いつの間にか随
分と酒が進んでいることに彼はようやく気づいた。
 酒とともに時間も随分と進んでいるが、その実感が全くない。酔いが廻っている所為か時間感覚が実際のもの
と一致していない。まだそれほど時間が経っていないようにも思えるが、実際のところは長針が軽く二周はして
いる。
 響が持ってきてきたウォッカの瓶は既に空になっており、それでは足りぬと、先ほど取り出した執務室に備え
置いていた酒も既に残り少ない。
 身体に取り入れたアルコールの量はそれなりのものとなっている。さすがにそろそろ危ないと思い始めたが、
そんな提督の思いとは逆をいくかの様に、響の呑む勢いは衰える様子は見られない。
「そろそろお開きにしようか。さすがに寝ないと」
「何を言っているんだい司令官。まだまだ夜はこれからだよ。さぁここにあるおさけを二人で全て駆逐しようじ
ゃないか。私はくちくかん、全ての酒を駆逐するんだよ」
「酔ってないか響」
 明らかに酔っている。響の事をよく知っている訳ではないが、これは明らかに普段の響ではないことくらいは
さすがに彼も見当がついた。顔に出ないだけ他人から酔いの程度が分かりにくいのが仇となっていた。
「урааа!」
「おぉっと!?」
 よろよろと立ち上がったかと思えばふらふらと執務室の中を歩き回り、最終的に提督に抱きつく勢いで彼の身
体へと倒れ込む。最早自分のしていることに自覚がない位には酔っている。酒の力恐るべし。
「ふふ、提督の身体はあたたかいね。酔っているのかい」
 これは駄目だと彼は心の中でため息をついた。
 駆逐艦たちどころか、艦艇全体で見ても冷静沈着な方に位置づけ出来る筈の響がこれほどまでに訳の分からな
いことになっている。原因は言うまでもなく机に置かれた不思議な液体どもの所為だが、それよりもこの現状に
ついて考えなければならない。彼は早くもとっとと意識を飛ばして現実逃避をしたくなった。酔うのは早くても
潰れるのは一番遅いような自身の体質を今更ながらに呪う。
「響、酒はおしまいだ。もう寝るぞ」
「なんだいしれいかん、一緒に寝るのかい。いいよ、今日は特別だよ」
「何を言ってるんだ。駆逐艦寮までは送ってやるから、ちゃんと寝るんだぞ」
「戻りたいのは山々なんだが、酔いが廻ってひとりじゃ歩けないみたいだ。提督、だっこしてくれないかい」
 誰だこいつは。
 最早目の前の幼子は響ではない。響の皮を被った別の子なのではないかと思う程に彼の中にある響のイメージ
からかけ離れた言動を連発していた。しかしそれと同時にこれが響なのかと酔った頭の所為で変なところで納得
しようとしている部分もあり、彼自身も酔いの影響が多分に現れていた。
「я тебя люблю」
「最早何喋ってるか分からんぞ」
 ついに日本語ではない言葉を話し始めた。響のことだからロシア語なのだろうと彼は考えるが、生憎ロシア語
に関してはさっぱりな故、響が何を喋っているのかは彼には理解が出来なかった。
 理解不能な言葉を最後に話したきり響は静かになった。顔は随分と嬉しげなのは何故だろうか。
 とりあえず今のうちに部屋から出ようと、ソファで寝る体勢に入った響を抱きかかえて立ち上がる。軽く小さ
い彼女の身体はすっぽりと彼の腕に収まり、早くも寝息を立てようとしていた。
 消灯し、部屋の鍵を掛けて廊下を歩く。響の身体の分だけ、普段よりも少しだけ重みが重なった音が廊下にこ
つこつと響く。
 彼女たち、艦娘が提督達に求めているのは父性であるとどこかの誰かが言っていたことを思い出す。もしかす
ると今日の響の誘いも、意識的か無意識的かは置いておくとして、そういう理由があったのかもしれない。戦闘
を初めどんなことも卒なくこなす響の、不器用な甘えなのか。
 求められているのならば、応えねばならない。それが自分がこの艦隊司令官として呼ばれた理由ならば尚更だ。
 どれだけ輝かしい戦績を残すような素晴らしい実力を持っていても、実際のところは成年に満たない幼子ばか
りである。
 嬉しければ笑い、哀しければ涙を流す。
 人間として当たり前の感情を持った、至って普通の人間と同じ存在。
 何も変わらない。我々と、何も変わらない。彼のような人間と、何も変わらない。
 頼り、頼られ。
 そうして生きていく。そうやって生きている。
「そヴぃえとろしあでは司令官がわたしをだっこする」
 ここは日本だ。
 ぼそりと突っ込みを呟きつつ、彼女を寮へと送る。
 旧帝国海軍時代の艦艇の記憶を持っていても、その力を受け継いで人ならざる力を持たされていても。
 彼女たちが一人の人間であることに変わりはない。
 父性や愛情を求めて当たり前だ。それが彼女達の心を安寧を築くのならば、拒む理由などない。
 腕に感じる重みは命の重み。
 一人の人間が持つ、生きている重み。
 代わりなど存在しない、たった一つの、そして一人の存在。

 響を自身の部屋へと送り返し、寝床に就かせてから駆逐艦寮の外へと出る。
 まだ周りは暗いものの、数刻もすれば水平線から朝日が昇って一日が始まるだろう。
 聞き慣れた波の音が港から届く。静寂の払暁にその音はよく響く。
 変わらぬ一日が始まる。




 

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