手に持つ拳銃から一発の空砲が空に向けて響く。
 赤く染まった空に火薬の匂いが混じり、鼻腔を刺激する。
 たった一発の、それも拳銃での別れ。永遠の別れを告げるものとしてはあまりにも淡い色のものであった。
 銃口から流れる火薬の煙はやがて風とともに空気に混じり消えていく。まるでこの一連の行程は初めから行っ
ていなかったかのように、周りは普段と変わらぬ姿を私の瞳に映している。
 分かっているつもりであった。常にその危険が付き纏っていることは理解しているつもりであった。
 だからこそ、慎重に慎重を重ねた作戦を繰り広げていた。臆病と言われても、同僚に皮肉を言われても、なに
よりも安全を重視した作戦を取り続けた。
 この鎮守府に着任して幾星霜。まだまだ提督としての経験が足りない事は自覚しているが、それでも漸く様に
なってきたのではないかという自負はあった。
 下手に結果を出してしまっていたからだろうか。臆病な性格の作戦はやがてその色を潜め、前進の力を持つも
のとなっていった。
 今思えば蛮勇といっても過言ではない。艦隊の実戦経験も飽く迄も鎮守府周辺での遊撃と防衛が精一杯だった。
それ以上は、自分自身の艦隊指揮の経験も、艦隊自体の経験もとてもではないが、足りていなかった。
 それは理解していたはずだったのだ。なのに、それなのに。
 あの日、私は南西諸島の防衛戦本陣に艦隊を向かわせた。戦果を出して天狗になっていたのだろうか。それと
も戦争が私の感覚を狂わせていたのだろうか。
 我々の艦隊では厳しいことは充分に理解していた。何よりも、防衛戦の本陣など初のこと。良い結果が出る事
など、期待出来るはずもなかった。
 それでも艦隊は私の命によって果敢に進んでいった。私の作戦を疑うことなく、負ける事など微塵も考えるこ
となく、艦隊は戦地へと向かっていった。

 南西諸島防衛戦は我々の敗北であった。二隻が中破、一隻が大破。そして、重巡洋艦の最上は……。
 部隊の3割を失えば敗北の目安となる。その基準からしても結果からしても、我々は大敗を喫した。最上を失
うという、大きな犠牲を払って。
 破壊されても、自力で帰還出来れば問題はない。時間は掛かれど、我らの技術は完全な形での修理を可能にす
る。だが、それが出来なければ……。
 自力で戻ることが出来なければ、沈んでしまえばそれも叶わないのだ。どれだけ、我々の技術力が連合国に勝
っていようとも、敵対国に勝っていようとも、沈んだ船だけは直す事が出来ない。
 轟沈してしまえば、その艦に対しては最早なにもする事は出来ない。ただただ、沈んでいくのを見るしか出来
ないのだ。
 私は、無力であった。
 沈んでいく最上に対して何かをすることも出来ず、ただその散り様を眺める以外に出来ることがなかった。

 私が鎮守府に着任してから初めての轟沈。
 初めて艦を喪った。
 経済的損失よりも何よりも、喪った艦のことが頭を支配して思考を支配する。あの広い海のどこかに、今も沈
んでいっているのだろうか。艦としての機能を失い、二度とこの鎮守府には戻ってこないのだ。最上を、二度と
この目で見る事は叶わないのだ。
 第一艦隊に所属を命じた時の嬉しそうな顔も、入渠して補給しているときの気の抜けた顔も、満身創痍で作戦
から戻って来たときの疲労に染まりながらも凛々しく輝いていたあの顔も、すべてがもう、記憶でしか見る事が
出来ない。この目で見る事が、叶わないのだ。
「最上…」
 良い艦であった。我々の艦隊にとって重巡洋艦は主力の艦だ。羽黒とともに第一艦隊を支えた、名実ともに主
力の艦であった。
 これからの成長も期待でき、将来に至るまでこの鎮守府で活躍してくれるであろうと予測出来る、素晴らしい
艦であった。
「提督……」
 秘書が私の様子を見かねて声をかけてくる。先ほどまで自分も入渠していたというのに、今はこうして私の心
配をしてくれている。健気で良い娘だ。
 しかし彼女のそんな気遣いも今は煩わしく感じる。彼女に答える事は出来ないでいた。
 この役職を重圧に感じた事は無かった。凡人に勤まる仕事ではないのは理解していたからこそ、むしろ喜びを
感じていた。
 しかしこうして艦を喪い初めて、この役職の重さ、この役職の意味、この役職の価値を理解したのであった。
 喪ってから気づくのでは遅い。せめて、私にもう少しの思慮深さがあれば。
 思考は泥のように濁り混ざり合い、そして思考を塗り固める。頭は回らない。ずっと、同じ事を考えている。
 そんな私を見かねたのか、再び秘書が私の名を呼ぶが、やはり私はそれに答えることは出来ないでいた。
 私の心配をしているばかりでは仕事に支障が出かねない。何よりも、まだ彼女には仕事が残っていた。私の姿
を再び一瞥し、彼女は再び自分の仕事を再開した。
 私も自分の仕事をせねばと意識を浮かび上がらせるが、そこではたと気づく。そういえば、もう今日のやるべ
き仕事はほとんど終わっていたのだ。
「提督、お手紙が、届きました……」
 思考の海に身を任せていると、気がつけば秘書が執務室の向かいにまで来ていた。
 電報がいくつかと、他部署や別の鎮守府から届いたいくつかの手紙があるらしい。
「あぁ、ありがとう。そこに置いてくれ。
 ……今日はもう戻って休んでいいぞ。お疲れさま」
 これ以上居られても、私は彼女に対して何かをすることは出来ない。逆に八つ当たりしてしまいそうだった。
 秘書は何か言いたげであったが、やがて察してくれたのか、一礼と共に執務室を後にした。
 そうだ、これでいい。
 彼女には悪いが、今は一人の時間が欲しかった。
 ゆっくりと、ものごとを考える、一人の時間が。
「最上……」
 喪った艦の名を再び口にする。
 私は別段最上に対して特別な思い入れを持っている訳ではない。他の艦に対しても、私は平等に見ているつも
りであった。しかしそれでも、私は自身の司る鎮守府に属する艦として、全ての艦に愛情を持っていた。
 最上との特別な思い出などはない。多くの艦と同じく、鎮守府の司令官と鎮守府に属する艦としての変わらな
いものであった。
 だからこそ、最上のことを思い出して、真っ先に思い浮かぶ思い出というものは存在しない。あらゆる場面で
の最上と接した思い出がゆっくりと、しかし大量に思考の海を流れていく。
 初めて鎮守府にやって来たときのこと、第一艦隊に配属し初めての作戦のときのこと、へまをやらかして中破
して帰って来たときのこと、敵艦隊を一隻で半壊させた時のこと、いろんな思い出が記憶として浮かんでくる。
 記憶の主役を飾る最上のあらゆる姿が、その記憶を良いものとして飾る。
 喜怒哀楽さまざまな表情がその記憶を飾る。そして最後に浮かぶのは、沈んでいく最上の姿であった。
「……すまなかった」
 彼女の能力が低かったからではない。艦隊の連携が悪かったからではない。
 私の作戦が、私の指揮が悪かったのだ。全て、私が悪かったのだ。
 何もかも、私が悪いかったのだ。
 そもそもがこの作戦を決行しなければ、あの時敵を深追いせずに戻っていれば、進路を別方向に取っていれば、
それはまた違う結末であったのかもしれない。
 だがもしもを考えるのは意味がない。今ここにある現実を受け入れなければならないのだから。
 最上は戻ってこないのだ。この鎮守府に戻ってくる事は無い。少し抜けているところのある、愛くるしく愛嬌
のあるあの艦は二度とこの目で見る事は叶わない。
 その責任の所在がすべて自分にあるということがたまらなく悔しく、腹立たしく、そして無力感に囚われる。
 徐に立ち上がり、鎮守府の執務室から外の景色を眺める。
 窓の外は既に宵闇。昏い夜になると陸地と海との区別がつかなくなる。それはまるで、この建物以外の周りも
海に囲まれているよう。
 幽かな波音が遠くから聞こえる。艦が緩衝剤にこすれる音がそこに混じる。
 この広い海に、彼女は消えた。もう戻ることはなく。
「すまなかった……」
 私の声が執務室に響く。
 真夜中の鎮守府に私の声を聞く者はいない。私の声は宵闇の海に溶けて、やがて消えた。

 

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